サルサソース ⑯ 有縁と無縁の間を生きる

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2023.9.6 更新

⑯ 有縁と無縁の間を生きる

赤石嘉寿貴

毎日の記録をかき続けるために日誌を書いていたがこの夏始めて更新が途絶えてしまった。書こう書こうと思いつつ前回の更新からあっという間に一月過ぎてしまった。全てはこの暑さのせいだ。そう暑さのせいにしてしまえば済むことだ。サルサソースを書くために久しぶりにパソコンに向かっている。

日々の仕事では滝のように汗をかき、着ているものは汗の吸収キャパオーバーをおこしている。沢にダイブするまでもなくびしょ濡れになっていくもんだから、お昼に1回着替える。ついでに沢に全身つかってクールダウンする。午後も同じくらい体から汗が出る。帰る前に再び着替える。1リットルの水筒を2本、2リットルの麦茶を入れたボトルが空っぽになる日もある。普通なら4リットルも水を飲んじゃいけないのだろうけれど、これだけ汗をかいたらまぁいいだろうと思う。というより身体が求めている。飲まなきゃお前は倒れるぞと警告を発しているのだ。

仕事が終わってチェーンソーの手入れをして、お風呂に入って疲れを癒やして、帰ったらすでにびしょ濡れの洗濯物を洗濯をして、あっという間に寝る時間になって再び朝を迎える。そんな日々を過ごしていた。講習のあとは一週間ほど夏休みがあって特にこれといって特別なことはしなかった。何かをしないことが特別だった。鎌倉に行って妻と過ごして、久しぶりに福津農園にも帰省したりしながら夏休みは過ぎていった。

人の思いが環境を作り続けている

怒涛のように過ぎていく日々でもなんだか充実している。キッコリーズの仕事は山で木を伐っているだけに終わらずキッコリーズを知ってもらう活動も行っている。そのために井代の森にお客さんを迎えたり、イベントに参加してキコリシューティングなんてものを考案して来てくれた人たちに楽しんでもらったりしている。

今日も山にお客さんを迎えて森のことを知ってもらう活動していた。それでも木こりの仕事というものはなかなか見えづらい。適切に管理された森は自然災害を防いでくれるし、栄養豊富な水を下流へともたらしてくれる。山に降り注いだ雨水が地中へと滲み込み川や海へと流れていく。その水を利用して農作物も海産物も成長して僕らの食べものとなる。どこが欠けても人間は生きていくことができないのだけれど、森の仕事にはなかなか光が届かない。

手入れがされなくなった森がたくさんあるということはそれだけ人々の関心が森から削がれているということだ。まさに間伐されずに放置された森林がそれを物語っている。人間がもともとあった自然の森を杉と桧におきかえてしまった。それだけでも自然を破壊したことに変わりないのだけれど、さらに人工的につくった森の木を伐らない、管理しないことで破壊がさらに進む。その影響は森だけにとどまらずにじわじわと都市部に広がっていくのではないだろうか?上流の環境が崩れれば、下流の環境も崩れる。すべては繋がっているのだからそれは必然なのだと思う。

先日、海藻研究所の新井さんという方の話を少しだけ聞かせてもらった。海水の温度が上昇していて海の生物や海藻の生息域が変わってきていて徐々に北上してきていると言っていた。温暖化の影響を森だけで解決することはできないのだろうけれど、今を生きる人間の思いが今起きている問題をつくっていて、いたるところで問題が噴出している。思いを変えることで環境が変わるならどういう思いを抱いていったらいいのだろうか?

長い長い年月の人間の思いが今という現実を作っている。それをまた転換するためには長い長い年月を必要とするのかもしれない。

それぞれの人がそれぞれの場所で前や後ろ上流や下流、そして水平に視点を行き来させて様々な繋がりをまた発見していくことが必要なのかもしれない。

有縁と無縁を生きる

最近読んだ平川克美著「21世紀の楕円幻想論」本に出てきた「有縁社会」「無縁社会」の話が心に残っている。

無縁社会というのは、お金を払うことでお互いの関係が片付くという社会、物をもらったら同じくらいのものを返すことで貸し借りなしの状態をつくる。お金を借りたらしっかり返済する。とても当たり前のことのように思う。実際自分たちが生きている今の社会がそういう社会なのだ。

それにたいして、有縁社会というのはどいうものだろうか?例えば今僕は盆栽センターでバイトをしているのだけれど、おばちゃんはとても良くしてくれる。コーヒー飲んでいきん、これ食べていきんと言って僕はそれに見合った何か返せているとは思えない。仕事をした分のバイト代はお金としてくれるだけれど、何かをくれる。それをもらうということは何かしらを返さなければという思いも一緒にいだく。そういう風にして縁が紡がれる。コーヒーを貰ってそれにたいしてお金を払ったら、それで済んでしまう話なのだけれど、それだと何だか味気ない。味気ないというのはそこに人との繋がりを感じられないということなのだろう。

たくさん野菜が採れたからこれ食べてと置いていかれる野菜、それに対して見合うとは思えないもの、それを超えるもののやり取りでも関係が繋がっていく。ときにそれが煩わしと思うこともある。だから無縁の場所へと逃げ込みたくなることもある。なにか問題を抱えている人でも、過去も問わず、どんな人でも受け入れてくれ場所それがアジールであり、無縁の場所だ。

ときに無縁に焦がれるし、有縁に焦がれる。無縁だけでは生きてはいけない、人は人を必要とするものだから、有縁の社会が必要だ。今の社会は無縁の部分が大きくなってしまっているのだろう。

そんな中、僕はどっぷりと有縁の社会を生きているような気がする。福津農園にお世話になりっぱなしで、僕は何も返せているとは思えない、それでもそこに居させてもらえている。僕はお金ではないなにかで繋がっているのだろうか?盆栽センターのおばちゃんはなぜか良くしてくれる。僕が役に立つ人だからだろうか?にしてもそれを超えて良くしてくれているような気がする。

持ちつ持たれつの関係というのだろうか、困っていたら自分のできることで助ける。何も期待せずに僕から能動的に始める。始まりはいつもそうなのだ。何かが繋がり始める。そのあとは受動的とも言えるような、あちらから何かがやってくる。それを受け取ったり、受け取らなかったり、そのまま貰う前にまた与えたり。

有縁から無縁が生まれて、無縁が有縁を浮き立たせる。有縁も無縁も持ちつ持たれつの関係のなかにある。今そんな有縁の社会を見つめるための時期にいるのかもしれない、森に目を向けるということはまた有縁の社会を見つめるということに他ならないんじゃないのか。

良きしがらみにしばられるには?

先日 WORKSHOP VO!! の SUBURI SUTUDIO で読んだ「技法以前」という本の中では統合失調症などを抱える人は、人とのつながりを回復したいという思いを持っていて様々な問題行動と呼ばれるものをしているということが書いていた。それぞれの行動一つ一つが叶わない思い一つ一つを叶えるための行動であり、自身を助けるための行動ある。他にうまい行動の仕方が分からない、ただそれだけなのだと。それもこれも人と繋がっていたいという思いから発せられる思いの一つなのだ。

それだけ人は人を必要としている。煩わしい田舎のしがらみ、それだけに限らず様々な人やグループとの間のしがらみはあるけれど僕らは人を必要としている。新しい「良きしがらみ」というものはないのだろうかと思ってしまう。そのためには人間がもう一つ成長しなければならないのだろうし、どんな人間であったなら良いのだろうかと自問自答するしかない。もしくは多くの賢人がすでに答えをだしているのかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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