⑰ 感性と人生と道作り

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2023.10.8 更新

⑰ 感性と人生と道作り

赤石嘉寿貴

変化を感じ取る力

9月の半ばから肌に感じる空気の温度が変わった。今年の夏も随分暑くて長かったように感じる。それでも日本に住んでいれば秋や冬がやってくる。季節の変化に合わせて人間も植物も少しずつ変化していく。

人間は着るものを変えたり、体の中では外界の変化に合わせて慌ただしく準備を始めている。乾燥し始める季節に肌のカサカサが潤いを必要としていることを体の内側から発している。植物も葉っぱを落としたり必要があるものは葉を落とし、春から夏の間に十分に吸い上げた水も暑さがやわらぐと共に必要がなくなり、今度は冷たい風から身を守るかのように年輪の線を一つまとい、風の入り込む隙間もないほどに自身に皮をピッタリとくっつけ始める。

変化なんてものは春夏秋冬なんて4つに区切られるようなものではないと思う。何が変化したのかは意外と気づかない、妻の髪型や色が変わっていたり、普段から一緒にいればいるほど、普段から身の回りにあるものほど、ようく眺めておかないとちょっとした変化を見逃してしまう。僕らは何かに意識を奪われながら生きている。それぞれが手にしたスマートフォンは生活を便利にはしたけれど払うべき注意が増えたという点では僕らの生活に不便をもたらしている。欲しくもない情報の波にもまれて僕らの心は方向感覚を失う。自分自身の体への意識は薄れて、背中は丸まり、腰も丸まり、また4足歩行へと進化していく。季節の変化さえも暑いか寒いかだけを感じるだけになって、外界の様々な変化を見逃していくことで人が感じられた機微を失っていく。

それでも日本ではまだ4つの変化は感じられる。今年のように夏が長くなって秋が短くなり、冬が長く、春が短くなっていったら、感じられる変化も減っていく、もしかしたら春夏秋冬は過ぎ去りし日の思い出になってしまう。外界の変化が僕らに作用して、何かを生み出していたのだとしたら、生み出せるものが減ってしまうような気にさえなってしまう。微妙な変化を捉えられたはずの僕らの感覚器官は単純なものしか受け取れないものになっていく。

自然の中での暮らしから遠のいたことだけが原因ではないとは思うけれど、それが感性を奪ってしまうことの一つの原因ではないのだろうか?食べること、暮らすこと、遊ぶこと、何にでも自然が関わっている。テレビゲームでさえも自然の何かをモチーフにして作られているのだから、ただ写真を見ただけで作られたものと自分の目や耳、肌を使って感じたものを表現したものではそこに現れるものには差が生まれるのではないだろうか。その差さえも感じられなくなってしまっては差を作ることになんの意味もなくなってしまうのだろうけれど。。。

僕の体もさすがに変化は感じ取って、もう沢には入っちゃダメだよと言っている。そのぐらいだれの体でも感じる変化か、それにしても風が冷たくなってきた。新城市で2回目の冬を迎えようとしている。

林業の話・補助金はぼくらの生活と繋がっている

先日、林業の研修のために福井県に行ってきた。そこで聞いたことや見たことで面白いなと感じたことがあった。

林業において売上を左右するのは丸太の値段であり、その山からどのくらいの量の丸太を運び出すかにかかっている。売ってそこから利益をあげようと考えると現在の丸太の値段はほぼ赤字になってしまう。単純に考えて丸太の価値を上げるか、たくさんの量を伐って出してくるしかない。

そんな中、林業で生活できている人達がいるのは様々な補助金を使うことが一般的になっているからだ。丸太を運ぶこと、人を雇うこと、道をつくること、道具を買うこと、その他自分の知らないものもあると思う。それは、大きな会社を対象とした補助金の制度となっているから、小さな林業をやっている人には使いづらい、もしくは泣く泣く使うことで大きな会社と同じような仕事をすることになり、他と同じ、特色のない会社になってしまうということにも繋がっていく。補助金の条件を満たさなければいけないのだから、必然的にすることは一緒になっていく。

そんななか福井市では小さな林業を後押しする補助金が作られていた。

丸太を運び出す手段には様々なものがあるけれど、その中でも山の中に道を作って丸太を運び出すのが主流になっている。大型機械やトラックが入っていくことができる3m幅の道を作ることが一般的で、僕らが活動している新城市では3m以上の道作りには補助金が出ている。しかし、それ以下の道、軽トラや小型林業機械が通れるだけの2mほどの道には補助金がでない。

福井では1.5m~の道作りに対して補助金が出ている。道を作らないと丸太を出せない林業においてはその補助金がどれほどありがたいのかは語っても語り尽くせない。道を作っている間は丸太を売れない、売れないということは収入がなく暮らしていくことが困難になっていくし、事業を継続していくことが不可能になり、山が荒れていく。お金にならないのだから現代の社会ではだれもそんな仕事をしようとも思わなくなってしまっている。収入を得るための仕事と考えるとやっぱりなり手はいない、それでも日本人は少なからず山の恩恵を受け取っている。都会に住んでいて関係がないように感じている人でさえも、食べるものの殆どは山や森がなければ作り出せない。森林は雨水を涵養して、僕らが飲むための水、農作物などを作るための水を作り、森自身を生かすためにもその水は使われる。川に流れればそこに生きる様々な生物が生きるために欠かせないものとなるし、海に注げば魚介類や海藻、水辺の鳥や他の生物が生きるための水をとなる。

恵みの雨は山、森林を通ることでその栄養分を高めて様々な生物の真の恵みの雨となる。森林が荒れること、はげ山になることは間接的にはすべての人がその影響を被ることになる。こんなことを考えているとこの地球上で起こること、起きていることは自分には関係のないことだなんて思えてくる。それでも全てに関わることは難しい、その中で自分にできることは何なのかを考えるということは変化を起こすための小さな一歩なのかもしれない。

人生は森作り、道作りかな

道作りが脇道にそれてしまったけれど、小さな道を作ることは山を荒らすことを防ぐし、小さな道は災害にも強い。大きな道は上を覆うものがないし、斜面を大きく削る、それだけ雨の影響を大きく受ける。崩れた道は僕らの命を直接的に奪うかもしれないし、生活道を塞いで間接的に僕らの生活に負担を強いるかもしれない。

小さな道では少ししか丸太は運べないかもしれないから、稼ぎはすくないかもしれない。大きな道ならたくさんの丸太を運べるから稼ぎは増えるかもしれない、その分どこかに負担を強いることになるかもしれないけれど。

そんなわけで小さな道にたいして補助金がでるということは木を伐りまくる必要がなくなり程よく間伐をしながら、森林を管理していける。生活することもできるし、事業としても継続していけるようになり持続可能な森作りに繋がっていく。

ただ補助金には問題もある、道作りのためにお金がでるということは道作りのために道を作るということになった時、意味のない道が山の中にできることだ。それでは持続可能な森とは正反対でまたしても破壊に向かってしまう。いつだって補助金にはそんな2面性がある。

本来、道というのは何らかの目的があってできていく。木を伐るために入れられた道、キャンプ場へ行くために作られた道、生活のために作られた道、道をみれば何をするために道がそこに作られたのかが分かる。

ぶらぶらと、ボンヤリとでも何かを目指して道なき道を歩いて振り返った時にそこには意味をもった道ができている。どこか人生と似ている。すでに意味のある道、ここを歩けばあそこに行ける道、それはもう何度も通られていて崩れる心配もないし、きっと安全な道だ。

たどり着きたいところはボンヤリとだけれど見えている。だけど、どこにも道がない、まだだれも通ったことがない道といういうより、道を作らなきゃいけない、新しい道はそんな風にして作られていくのだろう。カーブを描いたり、岩盤が出てきて砕くのに時間がかかったり、どうしても砕けなかったりしたらまた戻って、違う道を入れるしかない。急な上りになって疲弊する時もあるけれど早くたどり着くかもしれない。だれかの協力も必要になってくるかもしれない。

昔作った道を利用して、また誰かが新しい道を作り始めるかもしれない。うんやっぱり、道作りと人生はどこか似ている。道作りというか森作りか。やることなすこと、全て人生なんだなと思えてくると何だか毎日が楽しい、今一年前の僕とはまた違った心境に至っていると感じる。


赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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