サルサソース ⑫ 伐られた後には削られ研かれる

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2023.5.7 更新

⑫ 伐られた後には削られ研かれる

赤石嘉寿貴

都市へ出て森を知る

おれは木こりになる!と自由を求めて森林という大海原へと出航した僕の新たな生活は早いもので一月が経とうとしている。ありすぎてそれが何なのかということを意識することも忘れるぐらいに木は僕らの周りにある。都会のコンクリートジャングルに住んでいたら木や花、野菜なんかの植物が見せてくれる緑は貴重なもののように感じるだろうけれど、緑だらけだった場所をコンクリで固めて自分たちの生活しやすい環境だけを一生懸命整えてきた営みと緑を大切にしようとする人間の矛盾を感じずにはいられない。

森というのは人間が息抜きに来る場所なのだろうか?呼吸もしないビルディングがニョキニョキと生えるジャングルでは息を抜いたところで吸えるのは同じ人間が吐いた空気だけ。人の循環はあり、新たな文化を醸し出す場所としてはその素材が集まりやすい場所ではあるのかもしれない。都市の循環を支えるためにはどこからか資材を持ってくる必要がある。食料も資材も何もかも都市だけでは生産することはできない、唯一、人との出会いの数という点を考えれば人の誕生、新たな文化の創造という点では大いに機能しているのかもしれない。

青森県の田舎で育った僕も高校を卒業すると都市部へと移り住み人生の半分をそこで過ごしてきた。色んな仕事をして、色んな人にお世話になって日々過ごしていた。しかし、この2~3年の出来事が僕を再び自然に回帰させようと働きだしているのか、食を生産することへの衝動とそれに関わる森や山への興味へと僕を至らせた。

サルサを通して素晴らしい人たちと出会ったのも都市だった。都市がそんな面白い人達を生み出すのかというと田舎にもそういう人はいる。けれども、面白い人の数というのは圧倒的に多いのかもしれない。というだけだ。都市での生活というのが面白いということはある程度は知っているけれど、僕の根底には切っても切れない自然とのつながりが根付いていたのかもしれない。農作業をしたり、今は山の中を駆け回ったりして人間ではない生物に囲まれ汗を流している時間はなぜだか気持ちがいい。

踊りをいくら踊っても楽しいのはその時間だけで、生きることとは少し離れたところにいるような気がする。たしかに踊りは僕らの生活の中には必要な成分だ。昔から神様に舞を奉納したり、盆踊りがあったり、日本舞踊と呼ばれるものがあったり、様々な理由から生活の中に取り入れる必要があって歌や踊りやなんかは現在まで残っているのだろうし、きっとこれからも僕らの生活を支えるために必要とされるのだと思う。

いわゆるハレの日に踊りを踊る人にとっては、踊りの技術を高めることがケの日にするべきことなのかもしれないけれど、どうやら僕はそういうタイプではなかったようだ。踊りのことだけを一生懸命に考えるというのが辛くなっていっていた。踊ることも仕事をすることも僕にとっては生きていくことの一部であって、執着するものでもなかった。だれも仕事のために生きているわけではない、生きるために様々なことがこの世界には用意されている。その使い方を知って、それをいかに上手に使えるようになるのかが重要なことだ。僕らが道具に使われることがないように(時々もてあそばれることもあるだろうけれど)道具を上手く使うことでしかこの人生を切り開いていけない。

木という生物を相手にしているのだ

チェーンソーという道具とも上手く付き合っていかなければ、あっという間に怪我をしてゲームオーバーになってしまうこともある。道具を知り、何を相手にしてるのかを知らなければ人間の命はいくつあっても足りないくらいに林業という仕事は危ない。木ももちろん生物であり、生きている、生きているのだから本当なら伐られたくなんかないだろう。人間みたいに長生きしたいと思っているかは分からないけれど生きられるだけ生きたいはず。時々意思があるかのように伐った木が人間へと向かってくることがあるらしい。もしかしたら技が足りないだけ、注意不足なだけと一笑されるだけかもしれないけれど、僕らは生物を相手にしているのだから命を奪われたくないという木の最後の抵抗というものもあるかもしれない。

木が生きている生物だと思えるような体験の一つに皮むき体験があった。木は春~夏にかけて成長する。木の年輪をみたことがある人はたくさんいるとは思うけれど、年輪と呼ばれる黒い筋と幅が広く白く見えるところがある。白い部分が今の時期に作られる。そして、その白い部分が一番外側に来る今の季節、成長のために水が必要となり皮とその部分との間にたくさんの水が溜め込まれている。皮をナイフで切って、ヘラやなんかでこじると今の時期はツルンと皮が剥けるのだ。それは皮と幹の間に水分を溜め込むために隙間があるからでもあると思う。

そんな木の性質を知っていたら本来なら今の時期に木を伐ることはしない。水分が多いということは今の時期は伐った木が乾きづらいからカビも生えやすい、一番外側に柔らかい部分がむき出しになることで虫にも食べられやすい。それが今では乾燥機の性能が向上したこと、忌避剤で虫を寄せ付けないようにすることができるようになったこともあって年中木を伐ることができるようになった。というか年中木を伐りたくてそういう技術を向上させてきたとも言える。

昔の話を聞くとお米の収穫を終えた頃にちょうど山の仕事を始めていたらしく、まさしくそれは木の収穫時期というもの理解していたことも物語っている。春から夏にかけて成長して、その後は年輪でいうところの黒い筋が出来始めるころ、その部分は固く、水分ももうそれほど必要としない。そんな時期に木を伐ることで乾燥機というものを使う必要はないし、虫が食べようにも食べられない、ということは良い材としても出荷することができた。今の時期は切り倒す時にも慎重を要する。というのは伐った木や運び出す時に、今立っている木に当たると皮が剥がれそこから虫が入ったり、カビたりして、木にキズやカビの後が残る。そうすると将来利用しようとした時にはキズや変な模様のある木の価値は下がってしまう。それも「見た目」という点においてだけなのだけれど。。。

グッド・アンセスター

少しずつ有機農業や環境を考えた林業なんかも広まりつつある、それでも人間の都合だけに合わせて色んなことが行われていることの方が多い。どこまでもいっても自分たちのことをもちろん考える。木も人もそれぞれの生物はそれぞれ自身のことを考えるだろう。でもそれぞれの生物は「自分達だけ」ではいずれ息詰まることを知っている。植物も増えすぎると光の奪い合いになる、虫も増えすぎると割り当てられる食べものの量が減るし、彼らを好む虫に食べられる。まぁそう考えていくと自然の調節力でいずれは人間もちょうど良く調整されていくのかもしれないか。

それでも、自然に任せる前にやろうよって動きが今の農業や林業の中でも芽生えている動きなのかもしれないし、自然に調節されたくない生き残りたいという生物の本能がそうさせているのか。

自分の人生だから自分勝手に生きてもいいという部分もある。その一方で自分勝手に生きたことでこれから生まれくる人たちが生きていくための場所が目も当てられないようなものになってしまったらと考えると、未来の人たちの何してくれてんねん!と怒りの声が響いてくる。現代を生きる自分たちの生活と将来を生きる人達の生活を考える時のバランス、自分たちも犠牲にしたくないし、将来の人たちも犠牲にしたくない、どちらも上手くいく方法を考えなきゃいけない。今も大事にしつつ、将来も大切に思うこと、次の問はそれらを考えていく時に有効なものになる。

「私たちはよき祖先であるだろうか」-ローマン・クルナッツ著 「グッド・アンセスター-わたしたちは「よき祖先」になれるか」

この言葉だけでは何にもならないけれど、言葉がないことにはきっかけも生まれない、この言葉を心に刻む必要がある。

この日本の森や農には未来がないのか。森や農そのものの暗い未来は僕らの未来の生活を重い影で覆う。その中でもどうにかこうにか動き続けて今も将来も考えた森作りや農業をする人たちがいる。僕はそんな人達の考え方に触れることで僕自身が常にアップデートもしくはリニューアルしながら人生を歩んでいるようだ。よき祖先になるために。

様々な経験は僕が育った地域の山や森や海、平地での暮らしへと収束していく。森や海に囲まれて育った僕にとっては都市から田舎へという動きは自然な流れで、僕の中には備わっていたらしく、これまでの経験はそれに気づくための旅だったのかもしれない。自分を作る経験のどれもこれもがパズルのピースのように自分を形作っているし(足りないピースも拾い集めてながら)、丸太が製材されていくように色んな経験と人が僕を削っていってくれている。これからもさらに削られて、研かれてその形があらわになっていくのかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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