サルサソース ⑫ 伐られた後には削られ研かれる

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2023.6.7 更新

⑬ 僕らは様々なもののあいだを生きている

赤石嘉寿貴

木こり見習いもはや2ヶ月が過ぎて3ヶ月目に入ろうとしている。6月になってすぐに愛知県で線状降水帯が発生して豊橋市や豊川市の平地、愛知県の東側の地域で河川の増水などで大きな被害がでた。僕が住んでいる新城市の山側では土砂崩れや県道の一部が崩落してしまい、新城市の街から福津農園へと続く道が通行止めとなって街に出るには随分と遠回りしなければならなくなった。復旧には数ヶ月かかるということだ。幸いにも福津農園の中は何も被害がなかった。これも不耕起草生栽培のなせる技かと驚いている。

「みんな」の生活を考える

土は土を捕まえておくものがいなければ、水にもたやすく流されるし、風でも簡単に吹き飛んでしまう。植物はその根で土をガッシリと掴んでいる。土を掴む役目をおおせつかっているわけではないと思うけれど、土に根を張ることでかれらは生きることができる。彼らは動けないのだから、生活に欠かせない土というものを失うわけにはいかない、人間が家を大事にするようにかれらも、その足元にある土を大事にしているのかもしれない。そこに種を落とすことで自らの子供達は育っていく、親は朽ちて子らの栄養となって、また成長して子孫を残してとそのサイクルは永遠と続いていく。ずっと次の世代のための土壌を作り続けるのだ。そして知ってか知らずか他の生物が生きるための場所をも作り続けている。

僕たちは普段、彼らと同じようなことを何かしているだろうか?この地球上で人類という生物にも何かしらの役目はあるのだろう、何かを食べて分解して排泄して虫や微生物が利用しやすい何かを作り出している。森の大きくなりすぎた木を利用することもその一つかもしれない、大きくなった木はその枝葉で太陽光を遮る。太陽光を遮るものがいなくなれば、また他の植物が芽を出し始める。まさにスポットライトが照らすように色んな植物に光がさす。意外と他の生物のためになることもしている人間も捨てたもんじゃない。

みんな利用しあいながら生活しているのだと思うけれど、そのバランスというものを図るというのはとてつもなく難しい。数字で示すことができるようなことなら、こんなに騒がれている地球環境問題だって簡単に解決する。みんなというのが、途方もない数の生物、目に見える虫や動物、そこに微生物をいれたら…、という意味で「みんな」を考えることはできるのだろうか?あまりにも複雑になってしまうとは思う。それでも、そこかしこに「みんなの生活」があるということを想像することはできるだろう。

木を利用している生物は人間以外にもたくさんいる。人間にとってはまさに金のなる木(今はちがうけれど…)だからと言ってすべて伐ってしまったら、そこで生活していたもの達の生活の場が急に失われる。人間にとっての土砂崩れや河川の氾濫、津波と同じようなものじゃないかと想像する。ある日急に訪れる災害のごとく今までの生活が一変する。人間のために植えられた木ではあったけれど、そこに適応して生きてきたものたちがいる。そのものたちの生活も考えつつ、僕たちも利用させてもらい、ちょうど良くやっていくには過ぎたらだめだし、手をかけなさすぎてもだめで、そのさじ加減は観察することでしか感じられないのだと思う。

数字から抜け落ちるもの

農業も林業も数字では表しきれないものがある。人間も数字では表せないのと同じで、生き物を相手にしているのだから当たり前かもしれないけれど、今後向かおうとしているところはどちらの業界も同じようだ。人材不足で立ち行かなくなりつつあるなかで、高性能な機械やAIを利用して人手不足を補おうと。

たしかに便利になるし作業の負担は減って生産性は上がるかもしれない。生産性の向上と効率化の先に僕らは何を求めるのか?さらなる生産性の向上と効率化か?何のために?お金のためか?

人手不足を補うためには魅力ある仕事であることも欠かせないだろうし、それで食っていけるのか?というところも重要だろう。機械化を進めたからといってそれが魅力ある仕事に変わるかは謎だ。もっと根本的な、僕たちの生活を守っていくための上流での仕事だとということが抜け落ちたままだと何も解決されないままなんじゃないだろうか。そこには木を大量生産の工業製品のように見る視点とは違う視点が必要だ。生きていくためにお金も必要だけれど、それ以外の何かが抜け落ちるとバランスを欠いた状態になる。

機械からのお知らせを待つのでなく、感性でキャッチする

常に一つの視点では何かが不足する。人間の目も耳も2つずつ付いている。この空間を理解するためには一つでは足りないのかもしれない。松浦弥太郎が著書「伝わるちから」の中で言っていた。

“対話のポイントは常に、今のこと、そして、未来のことの両方を話すように心掛けている-松浦弥太郎著「伝わるちから」”

これは僕たちが考える時、行動する時にも同じことが言えるのではないかと思う。現在のことも考え、未来のことも考える。その2つの視点が必要だ。さらに他の人の視点も足したら4つ、6つと、それがバランスを取るということにも繋がってくる。何かと何かを考えることはその間にあるものも考えることにほかならない。

僕らは常に自分とだれか、自分と社会、現在の自分と未来の自分、自分と組織、自分と何かの間を揺れ動きながら生きているとも言えそうだ。それがどちらかに偏り過ぎた時何かしらのサインとして僕らの目の前に現れる。眼の前に現れているものは何らかのサインだ。スマホみたいにピコンとお知らせの音を鳴らしてくれたら便利だけれど、何らかのサインに関しては機械的なもののお知らせを待つという姿勢ではなく、感性を磨くことでしかキャッチできないんじゃないかと思う。

機械という道具を便利に使いつつも、この地球に生きる生物や自然に寄り添うことで感性も磨かれるのだろうか。

続ける日々は続いていく。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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