⑨ 福津農園という風景

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2023.2.1 更新

⑨ 福津農園という風景

赤石嘉寿貴

僕の話す声と手は少し震えていただろうか、その緊張が少し伝わっていたかもしれない。顔が見えない、初めての人と電話で話をするとはそういうものだろう。松沢さんは、研修をさせてもらいたいという走り出す自分の思いを聞いて、ゆっくりとした優しい語り口で「まぁ一度見学してみてから考えてみてはどうですか?」と言ってくれた。2021年の年の瀬が迫る12月20日に僕と妻は福津農園の見学に行った。そこから僕らの研修は始まった。

お金じゃなく食の話をしよう

2021年、今までの仕事を辞めて農業を学びたという思いが芽生え始め、青森県の弘前市にある有機農家さんのもとへ通って研修させてもらっていた。いやそもそも「生きる」とは何なのか、どういうことなのかを知らなきゃいけないという思いが強かった。当時はサルサというダンスを地元や県外で教えながら日々暮らしていくための収入を得ていた。

しかし、長引くコロナ禍の影響は身体的にも精神的にも僕らに大きなダメージを与えた。もちろん収入は激減して現実的に「食うこと」が脅かされ始めていた。そんな不安や同じ年に父が亡くなったことも相まって「La Vida es Corta-人生は短し」ではないが、その短い人生を生きていかなきゃならないし、生きるためには食わねばならぬと僕の中の武士(もののふ)が立ち上がった。いや農業やるのに武士かよとは思ったが、その物言いは武士ではないか、百性だって時には武士になることもある。

現代社会の流れからして「ちゃんとお金を稼ぎなよ。結婚して奥さんもいるんでしょ?ならなおさらちゃんと就職して」うんぬんかんぬんと言われてしまいそうだ。確かに日銭を稼ぐことはできる。色んな仕事遍歴を持つ僕はどんな場所でもどこからでも、ゼロからココから(ん?どこかで見たキャッチコピーだ)始めることのハードルはめちゃくちゃ低い。けっして浮気性なわけではないのであしからず。

新たな仕事を始めて「お金」を得る。それは必要な何かを「買う」ためだ。僕らの衣食住を満たすために、なんならたまには人生にバラを添えるために仕事をするのであって、けっして「お金」そのものを欲しているわけではない。もしかしたら、お金を食べたいと思った人、お金を飾っておきたい、お金を持ってトレーニングしたい、お金を積んで雨風をしのぎたいと思った人もこの世界にはいるかもしれない。いやいるわけないだろ。そんな人いたら見てみたい。見たこともないことをするのがバズるコツなんだろうけど良い子は真似をしないようにね。

話は脱線したが普段はお金で野菜や肉やそのほか諸々の食材を買って、食べる。「お金」がないと食えないというのがこの世の標準仕様らしく、そのシステム(いつからそうなった!?)に抗うためには「食」を生み出すしかない。「食」を作ることが百性の仕事でもあるし、植物や昆虫、動物、果ては微生物など、もちろん人間も含めて自然界に生きるすべての生物との共存・共生の元にある百性の生活そのものが生きることに直結している。

エネルギー獲得産業という名の農業

何事を成すにも食うことが大事なのは言うまでもない。食べることはあまりにも日常的すぎて「食べる」とは何かなんて意識に登ることは少ない、というか「食べる」とは何だ「う~ん」と腹が減る度に考えていたのでは食べることを忘れて悟りの境地に達してしまう。そんなことで「食べる」は無意識の領域に追いやられ、腹が減ったと身体がシグナルを送ってきたら「唐揚げが食べたい、いやハンバーグの気分かな」とランチのメニューが頭に浮かびだすしまつだ。

僕らは食べなきゃ動けなくなってしまう。僕らだけではない、生きている生物のほとんどが何かしらを食べる。困ったことに刈払機だって、耕運機(福津農園では田んぼ以外で使うことはない)だって、ガソリンを食わせなきゃ動きもしない。食べ物は動き続ける身体のために必要なエネルギー源になっている。ガソリンも人間には出すことのできない大きな力を出すためのエネルギー源だ。

僕らは自らの身体の活動を止めることはできない、自分の身体なのに不思議だ。何ものかに操作されているのか、腸は第二の脳とはよく言うがたしかに腸内には数え切れないほどの微生物たちが住んでいる。もしかしたら彼らによってコントロールされているだけなのか?彼らが「腹減った~!なんか食べたい!」と思ったとき僕らは無意識に彼らに餌を与えるべく口に何かを運んでいるのか?ならば彼らの活動までコントロールすることは手にあまる。自分をコントロールするだけでも精一杯なのに。

食べることは僕らが動き続けるため、生きるために必要なエネルギーを獲得することに他ならない。

農業は「エネルギー獲得産業」であると松沢さんの言葉が思い浮かぶ。

植物を育てる最大にして人間が未だに作り出すことができずにいるエネルギーはなんだろ?そう太陽光エネルギーだ。人間はそれに近いエネルギーを生み出したじゃないか、原子力発電はそれに近い?でもそれを動かすためには電気が必要だ。電気は何から作られるのか?石炭を燃やしたりして。石炭は?そう植物が長い時間をかけて形を変えたものだ。今のところ太陽光エネルギーを上手に使えるのは植物しかいないんじゃないだろうか。いやいや太陽光パネルがあるじゃないか、あの山とか空き地にたくさんあるやつね。でも、それすらも、使われる素材を生成するためには植物が形を変えた石炭や石油を使うことでしか作り出せないのだ。

太陽光エネルギーをソーラーパネルじゃなくて、緑のソーラーパネルを使って僕らの身体に本当に必要なエネルギーに変換することが農業の本質の一つなのだ。緑のソーラーパネルとはなんだと思われた方は緑の芝生でも、河原に咲き誇る雑草でもなんでもいいので想像してみてほしい、そこに生えている一つ一つの植物が太陽光エネルギーを受けて成長してやがて子孫を残して、その身は朽ちて他の生物に利用され、分解され、土になってまた次の世代が命を育む土壌というライフステージを作っていく。

その土を利用して僕らは作物を作るし、売られている農作物を買って食べている。人間が太陽光エネルギーを浴び続けたらどうなるだろうか、う~ん、ただ干からびるだけだろうな、たぶん。人間の身体はソーラーパネルにはなりえないということが分かった。

福津農園では草刈り以外はほぼ手作業で野菜を作っている。ほぼ耕さない、つまり土を起こすことを最小限にして、種まきから収穫までほとんどエネルギーをかけずに農作業を行っている。かけたエネルギー量を上回るエネルギーとしての野菜達を収穫して、自分達でもそれを食べてさらには他の人達にもおすそ分けできるほどだ。

しかし、現代の工業的な農業では大量のエネルギーを投入しても得られるエネルギーはそれを下回っている状況だ。広範囲を耕すために耕運機が必要とされ、それにともなって石油が必要になる。草を生やさないようにするためにビニールのマルチが必要になる。虫も草も排除するために農薬を必要とし、作物の成長を促すのは化学肥料にたよりきり。エネルギーを大量に投入することによって人間は楽ができるようになったし、大量に生産することもできるようになったのは事実だ。そして、そういった農業のやり方が地球温暖化やそれにともなう気候変動、生物多様性の喪失など様々な問題として現代社会に顕在化してきているのも事実だ。まさに現代農業は「排除の論理」で成り立っている。草も虫も排除、最後は人間まで排除されてしまう始末だ。自業自得とはまさにこのこと。

しかし、そうしたくなるのも分かる。起こす労力たるや手作業で耕したことがある人は身体がその辛さを覚えているだろう。10m✕1mくらいの範囲を耕すだけでも骨が折れる。硬い土だったらなおのことクワが折れる。そんなことをしたくないがための耕運機ほか様々な農業機械である。できたら楽をしたいのが人間なのだからしょうがない。

それでも思い出されるのは、あの夏の暑くて雨が降るなか田んぼの草取りをしたことや汗だくになりながら畦塗りをしたこと、ニンジンの種を蒔くためにクワを振るったこと、楽じゃなかったことを身体が記憶している。自分追い込まれる方が好きなんで、とちょっとM気があるのはいなめないが、辛さとしてではなく初体験のことにあれこれ試行錯誤しながら臨んだ記憶がよみがえる。

草は人類の最重要資源?草からみる循環の話し

耕さない、草を排除しないということが大切されているこの農園では草の大切さを嫌というほど味わう。ホントに草刈りが大変なのは事実だ。松沢夫妻の健康の秘訣は草刈りなんじゃないかと思うほど、あの強靭な足腰はそこから来てるのかもしれない。あの夏の太陽が容赦なく照りつける日でもガンガンに刈払機を振り回している姿には驚く、を通り越して勇ましさを感じずにはいられない(笑)。

お二人がすごいのは置いといて、貴重な資源としての草の役割から「共存・共生・循環」という第二の松沢ワードが導かれる。草を始めすべての植物は自然界では本当に欠かせない存在なのだ。草がないとはまさに砂漠だ。砂漠に住める生物もいるにはいるだろうけど、そこに多様な生物の営みはあまりみられないような気がする。人間だって緑を求めて移動するのだからそんなところに住めるものは限られている。

一方草が生い茂る福津農園では様々な生物がところ狭しと活動している。田んぼに水が入ればカエルやオケラ、ゲンゴロウ、ヒル、イモリ、トンボetc、夏の夜にはトノサマガエル、シュレーゲルアオガエルの大合唱で耳が痛くなるほどだ。夏の畑には蚊やブヨがいて、あんなに蚊に刺された夏はないんじゃないかと記憶がよみがえる。トンボがちょうど周りにいれば、寄ってくる蚊やブヨをパクっと食べてくれる。蚊は人間の天敵ではあるがトンボにとっては貴重な食料になる。

草があることでそれは昆虫などの食料にもなるし、住処にもなる。そこには昆虫を食料とする生物達が集まってくる。鳥やイノシシ(ミミズを食べる)、モグラ、はたまた他の昆虫が食ったり食われたりしながら、他の生物を生かし、生かされ、生命が循環していく。その要になっているのがやっぱり草なのだ。草はそこにあるだけで、土に根を張り、その強靭なちからで土と土の間に隙間を作っていく、さながら野生の耕運機だ。土が草に覆われることで地下からの水分をただ蒸発させることなく吸収しながらも土を潤し続ける。虫や動物に食べられても何度でも立ち上がる草の生命力には驚くばかりである。あれ?数日前に刈ったよね君、と言いたくなるほど。

草はそうやって他の生物の食料になりながら、子孫を残すために栄養を蓄え、少しずつ朽ちていく、それでもなお土の中の微生物の食料となって自らもまた「土」と呼ばれるものになっていく。そして、その土に蒔いた種から農作物を収穫して食べているのが人間だ。草と他の生物の共同作業によって人間が食べられるものを作るための「土」は形成されていく。

他の生物との共存・共生がなければ循環しえないことが草を通して分かるようになってきた。人間もそうだけれど人と人の共存・共生さえも危ぶまれている今だからこそ、人以外の生物との関係を考え直すことで、人もまた大きな循環の輪の中で生かされていることに目を開くことができるのではないかと思う。自然から離れすぎてしまった現代社会を行動様式及び思考を問い直すこと、自然の営みの中に自身を預けることでまた新たな人の関係も作り直されていくのかもしれない。

ここに極まる福津農園の風景という外部生産

福津農園に来るとUVカット100%絶対に地肌は焼きませんと言えるくらい土は草に覆われている、普段は草を目の敵にしている人でも、ここを訪れるとその光景に驚くとともになんとも言えない心地よさを感じるのではないだろうか。心地よいその空間は様々な生物にとってもオアシスであるし、その生物のなかには人間も含まれる。カラカラに乾いた東京砂漠に住んではいても、心のどこかではオアシスをもとめている。もうVRとか言って次元の違う世界に行ってしまっている人達もいるかもしれないが、現世とは切ってもきれないのがこの身体、食べなくてはVRもあったもんじゃないのだ。デジタルデータだけ食べて過ごすことができたなら人類史に残る大革命の始まりになる。

自分も現実に目を向けなければ、そうだ農園はオアシスになるのだった。農園が作り出すものすべてが体験され経験できるものとなる。子供たちにかかれば、あっという間に農園はテーマパーク化する。大きな木を見れば登りだすし、池を見ればメダカだイモリだ、エビだと網ですくい上げてしまう。田んぼに敷き詰めた稲わらは吹けば軽く吹き飛ぶ稲わらの家となる。鶏と戯れ虫と戯れ、自然を知る。そこにある風景を体験し経験するなかで心に焼き付け、いつか心が乾いてしまうその時に思い出されるのがこのオアシスだろう。

農園を構成するすべてが農業の副産物であり、それが第三のMATSUZAWA ワード「外部生産」なのだ。農業の工業化はこの外部生産をなくし、自然や文化をも破滅させていくと松沢さんは語る。つまりはキャベツだけが植わっている畑に行っても先にあげたような体験はできない、キャベツを放り投げて遊ぶことはできるかもしれないがすぐに叱れられるのが目に見える。そんな畑を工業製品があふれる工場というならばそういう風景もありだろう。でもそこには虫との戯れも木登りも遊びを許す隙間がない。

人類の福祉に貢献することをも含んだ「外部生産」は福津農園が生み出しているもう一つの生産物だ。鶏、様々な昆虫などの生物や植物、生物多様性に満ち溢れた農園の中、そして農産物を食べてくださる人々と農園を訪れる人々との間にも築かれている「共存・共生・循環」のシステムがなめらかに動き続けることで「福津農園」という風景が作られている。

あずましい、福津農園での研修の終わりに

朝起きて朝ごはんを食べて、鶏にご飯を食べさせて、作業をして、お腹が空いた頃にはお昼ごはんを食べて、午後は日が沈むまで作業をする。そして、夕ご飯を頂いて寝る。毎日がこの繰り返しだったけれど、いつも何かしらやることがあってこうして僕らが食べるものは作られていくんだと分かった。ここでの生活で自分でも食べ物を作り出すことができるんじゃないかと思えるようになった。

ここでの生活はなんだか「あずましい」。あずましいとは津軽弁だ。疲れ切った体で気持ちのいい温度のお風呂に浸かったあの時の感じだ。お風呂のお湯に自分が溶け出していくあの感じ。でもいつかはお風呂から上がらなければいけないようにこのあずましい場所から一歩外へ出て次への身支度を始めなければならない。

福津農園の至るところに松沢さんの農業哲学、いや人生哲学が溢れている。そして、妙子さんの何ものにも動じない柔らかい気持ちに包まれながら(蛇にはキャーっと驚くけれど)この福津農園で日々を過ごせたことこそがこの一年の最大の収穫であり、一生物の宝物になった。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)

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