⑥「あいだ」と「調節」と「中動態」

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2022.11.7 更新

⑥「あいだ」と「調節」と「中動態」

赤石嘉寿貴

こちらに来てから毎日農業日誌を書くと決めていた。長続きしない自分を奮い立たせて継続させるためには身内以外のだれかに「〇〇をするので見ていてください」と宣言するのが自分にとっては良い気がしている。だからと言ってその人に宛てて書いているわけではないけれど、外部からの程よい圧力が働いているくらいの方がいいんだろうなと思う。(作業がお休みの日を抜かして)だいたいは作業が終わって夕ご飯までの自由な時間を使って書いているけれど、作業が詰まっていたりしてどうしても書けなかったり、疲れすぎて書けなかったりする時もある。そんな時は朝5:00くらいに布団を抜けだして書いたりする。

何もなければ朝の時間8:15ころから朝ごはんなので、起きてからその時間までは本を読むことにしている。その朝の時間が体のコンディションが一番良いような気がしていて本を読んでいる。夜は体が疲れているのか読んでいても目が疲れたり、眠くなってしまう。

11月に入って気温が下がってきてこともあって、いつも本を読んだり、日誌を書いている場所はよりいっそう寒さを感じるようになってきた。下がコンクリの土間に4人掛けのテーブルがあって、木曜日になるとそのテーブルは計りや収穫したものを置いて作業するための作業台になる。その他の日は特にだれかが使うということもないので、自分のデスクとして使用させてもらっている。最近は朝が寒くて、本を持つ手には指出しの手袋を履いて、椅子の上にかいたあぐらの上にはひざ掛け、服も何重かに着込んでそこに1時間~2時間くらいは座っている。

農作業は稲刈り、脱穀を終えて忙しさのピークが過ぎたように感じる。今、畑では冬から春にかけて収穫できるようにと蒔いた白菜やニンジン、ジャガイモ、春菊などがキレイな緑の葉っぱを土の上に広げて太陽の光を十分に浴びている。先日読んだジェームズ・ラブロック著「ノヴァセン」の中に出てきた「光の収穫者」という言葉が自分の心に残った。人間も太陽光を必要とするけど、植物はまさに光を収穫しなければ生きていけない。畑では作物と雑草との太陽光の奪い合いが常に行われている。たいがい雑草の方が強くて、作物は人間の手助けをいくらか必要とする。動けない作物は、その他にも虫や病気、悪天候を凌いで生き残ることで人間の生命の一部になる。

色んな調節力

当法人のSUBURI STUDIOで課題本となっていた「中動態の世界」を10月は読んでいたこともあって、世界を中動態でみるとどうなるのか?ということが頭の中を巡っていた。現代で使われている能動と受動の概念-自分達もその中を生きているのだけれど-ができる前には中動態だけしかなかったのではないかという話を哲学、文法の歴史を遡り、そしてまた現代に戻ってくるという壮大な旅の中で中動態とはなんなのかに触れた。数回読んだだけでは本当の理解には至らなくて、ああなのかこうなのかと思考を巡らしたり、話をすることでそういう見方があるのかと気づいたりする。

そんな本の中で「コナトゥス」という言葉が出てくる。著書を引用すると

様態の諸部分間の関係を一定の割合で維持しようとする力のことを、スピノザは「コナトゥス(conatus)」と呼んでいる。スピノザによればこのコナトゥスこそ、様態の現実的な本質である。「各々の物が事故の存在に固執しようと勉める努力(コナトゥス)はその物の現実的本質に他ならない」
〜 國分功一郎著「中動態の世界」

これは人間のことについて言っている。この世界を哲学した人物なのだから人間も含めたこの世界の定理のことをも述べているだろうけども、これは松沢さんが言われるように「自然の調節力(能力)」とよばれるものに似ている。これはショーン・B・キャロル著「セレンゲティ・ルール」の中では「すべては調節されている」という言葉をもとに松沢さんが言われているのだと思う。その本ではタンザニアのセレンゲティ国立公園の生態系を観察してそこに働いているいくつかの調節力や人間の体の中で起こっている調節などが紹介されている。

ざっくりと説明すると「自然界では動植物の個体数はなんらかの力が働くことによって一定の範囲内に維持される」というものだった。

畑で言えば殺虫剤で害虫と呼ばれる虫を駆除しようとすると一緒にその捕食者であったはずの虫も駆除することになる。もちろんその他の生物も。そうすると、一部、強い害虫だけが生き残りそれらが大量に繁殖する。害虫が大量発生すると食べるものの量によっては全員に渡らなくなったりしてある時点で死んでしまうものも出てくるし、大量にいるということはそれを餌とする益虫も増えてくる。そうして、益虫も害虫も一定の個体数が維持される。意図的に何かを取り除こうとしたり、増やそうとしたりすると、あるものだけが繁殖しすぎて害をなすことがあるけれど、放っておけば自然な状態に収まっていく。

でも、人間がしでかしたことでバランスが崩れてしまっているのなら、人間の介入でより早く元通りになっていくということも著書には書かれていた。だいたい人間のすることによって自然は破壊されているのだから、壊した自然を元通りに近いものにするのも人間の責任だ。また、人間も動物だしこの世界の一員なのだから、増えすぎることで何らかの調節作用が働くこともある。それに抗うかもしれないけれど。それをも受け入れることがこの世界に生きるためのルールなのかもしれない。

自分達の体のなかでも同じような作用が働いている。体温はほぼ一定の温度を保っている。それはその温度にとどまっているわけではなくて、寒くなったら温めようとするし、熱くなったら冷まそうとする。それほど大きな変化でなくても、意識をするしないに関わらず体はつねに外部の変化に反応して一定の範囲内に収めようと行ったり来たりしている。

上がりすぎた血糖値を正常な値に戻すための働きも同じようなもので、それは「ホメオスタシス」と呼ばれている。科学者であり軍人だったウォルター・B・キャノンという人が提唱した考え方だ。以下のように紹介されている。

ホメオスタシスとは本質的に調節の問題であり、身体の状態を特定の範囲内に調節し維持するために作用する、身体の生理的プロセスなのである。…「安定性は積極的な調節に基づく」…
〜 ショーン・B・キャロル著「セレンゲティ・ルール」

哲学的であれ、生理学的であれ、どうやら人間の身体、自然界に生きる動植物には同じような作用が働くらしい。では人間同士の関係はどうなのだろうか?

ゆらぎ、動き続けるもの

自分の心、人間関係、自然界の動植物同士の関係(人間も含めて)をよくよく眺めてみると一定の状態にあるように思えるものも常に動き続けているということがわかる。

心も喜びの状態にいたかと思えば悲しみの状態になったりするけれどもパッパッと変わるよなものではなくて、普段は喜びと悲しみの間をウロウロしていて、一定の状態に保とうと調節されているけれど、私達の外部でそれぞれの人にとって重要な出来事に反応して喜びや悲しみなどの感情が高まる。

人間関係も一定か?と考えてみると自分の状態によって付き合う人が変わる。サルサをしていたらそういう人達と関わり合うことも増えるし、その中でも何だか一緒に居たいなと思う人も出てくる。農業をやっていれば、同じような考え方を持った人と近づくだろうし、人生においてどんな考え方をもっているかどうかということや、何に楽しさを感じて、何に憤りを感じているのかなど色んな要素によって人間関係も変わっていく。

例えば、恋人同士になった2人が一緒にいようとして2人が大事にするもの(価値観?)の違いからケンカをしたり、仲直りしたりしながら、付かず離れずを繰り返している。実際はそんなことをしながら2人の関係は小さなゆらぎをもって動き続けながら、傍目にも自分達にも「恋人同士」という一定の状態に保たれている。それが大きくなると結婚に至るかもしれないし、別れが訪れるかもしれない。

そうすることができるのはある意味、自由に動ける「あいだ」があるからなのかもしれない、あいだや隙間がない状態とは何かに縛られて動けなくなってしまっている状態でケンカすら起こらなくなってしまうかもしれない。ケンカできるということはまだ反論する「余地」がある、「私は話をできる」という心理的な余白があるように思う。(ふと思ったけれど愛に押しつぶされるということはありえるのか?押しつぶされるほどの愛はやっぱり苦しいのだろうか?)

心が動いたり、体が動くためにはある程度、ゆらいだり、動くための隙間やあいだ、余白と呼ばれる何かが動ける余地がある空間(目に見える、見えない)が必要になるような気がする。何かに押しつぶされたり、何かに抑圧されたりされた状態というのは「あいだ」が失われた状態で身動きがとれない。

ちょうど韓国で事故があった。狭い路地で150人ほどの人たちが死亡した事故。押し倒されて圧死した人や、立ったまま呼吸することができなくなって気を失ってしまったり、そのまま亡くなったり。まさに隙間なく1㎡あたりに10人の人がいたらしく、その状態は人が身動きができない状態らしい。

圧力によって肺を動かし膨らむ余地がなかったり、心臓というポンプを押さえつけられて血液の循環も滞る。狭い道路という空間での人の循環も失われていた。隙間がない状態というのは体にとっても危険だということが分かったし、体の中でおこっていることにもそれは当てはまるんだろうなと思った。

心、気持ち、行為、人との関係、自然界で起こる現象すべて、あいだ、余白、隙間、が関係しているのかもしれない。そんな「空間」を持つことでゆらぎ、動き続けることができるし、逆にそれがないと自分自身で動くこともできない。

サルサにおける能動、受動、中動

能動と受動と中動を考える中で自分がやってきたサルサについても考えてみた。社交ダンスを想像してみてみると分かりやすいと思う。ペアになってだれかと組んで、繋がって踊る時には「リード」と「フォロー」という関係が現れる。これは自分だけがそう思っているのか分からないけれど、そういう表現(リードとフォロー)をするからか、なんだかリードする人の方が能動的でフォローする人の方は受動的な感じがする。

リーダーの役目、フォロワーの役目とその方法についてやマナ―みたいなものについてなどはレッスンであれこれ教えていた。サルサというゲームを一緒に楽しむためにはそれが最低限一緒に踊るためには必要なことだとは思っている。でもたくさん踊ってきて思うのは「お互いにリーダーでもフォロワーでもない瞬間」になるというか、そういう瞬間が訪れることがある。リードはしてるんだけれど、相手は自由に踊っていて、自由に踊っていることでリードしているはずの自分も踊っている。リードとフォローが曖昧になる時、なっている時というのは2人で本当に音楽を楽しんだり、踊り自体を楽しんでいる状態になる。それは能動でも受動でもあるし、そのどちらでもないものなんじゃないだろうか。

リードとフォローというのはお互いに影響しあっていて、例えば、リードが強すぎるとどうなるかを想像してみる。次はこんなことをしてほしい、この技をしてほしい、こっちに進んでほしいなどの思いを「組んでいる手」や「体の重心移動」やなんかの合図で伝えていく。でも「自分はリードするんだ」という思いだけで動いてしまうと、それを伝えたいがために手や体に力が入ってガチガチになる。ガチガチでなくとも相手のことを考えられずに手や体に力が入ってしまったりすることがある。そんな時、相手は「何だか強くて、動けばいいのは分かるけど動かされていてあんまり気持ちがいいものではない」と思うことは想像することができる。(それでも、好きな強さやなんかは人それぞれなので一概には言えないこともあるけれど、自分の踊りが好意的に受け取られていた-と思っている-ことを踏まえて想像力を働かせるとそうなんじゃないかと思う)

リードが強いと相手は動かされていると思ってしまう。リードする側が「リードをしている私」になってしまうと、リードしている側の目には私のリードで「踊っている(リードに従っている)」相手が映る。でも、相手は「私の踊り」を表現したいのであって「リードに従う私」を表現したいわけではない。リードが強すぎると物理的にも心理的にも相手に「踊り」を強制してしまうことになる。

逆に強すぎるリードが動きを強制するなら、リードが弱すぎればどうなるのか?

「弱いリード」を踊っている相手の身になって考えて見ると「どこに行っていいのか、何をしていいのか分からない、リードをしっかりと感じなければ」と今度はフォローに徹することになるのが想像できる。これもまた「フォローする私」になってしまって「私の踊り」が表現できなくなってしまう。(その中でも自由に踊るんだ!と思う人もいるかもしれないが)

でも、相手が「私の踊り」の表現だけを求めて、合図に関係なく自分から動き出してしまったらどうなるか?リード側は「私の踊り」に圧倒されてしまって「リードは必要ないかも」とリードを放棄したくなるかもしれない。「私の踊り」の表現だけを求めるならペアじゃなくて一人で踊るという方法もあるけれど、そうじゃなくてペアで踊りたいというならどう考えたらいいのだろうか?

サルサにおけるペアダンスというゲームはリードが起点にはなるけれども、「弱すぎても」「強すぎても」だめならその「あいだ」の丁度いい加減を探らなければならない気がする。「丁度いい」それは踊る相手によって違うはずだから、自分が踊りながら良い加減を探らなければならない。音楽を聞く、リズムを刻む(全身で)、ステップを踏む、音楽に合わせてどうリードするかを考える。なおかつ相手にはリードが伝わっているか、いやもしくは強すぎはしないだろうか?と同時にやることは多い。その点で男性(リーダー)は挫折することが多い。(全然関係ない話だけれど)

リードとフォローを考えるためにはどうしても踊るための基礎を固めるということが必要になってくる。リードするだけ、フォローするだけでも「私の踊り、私達の踊り」が訪れることはないし、どっちが先でもなく同時に考えていかなきゃいけないことではあるけれど、ステップ1としては何も考えずにリズムに合わせ体が動く、最低限何も考えずにリズムに合わせて足が動くということは必要かもしれない。そうすることで踊っている相手の視点に立つことができるのかもしれない。

ここまで書きながらふと思ったけれど、リードとフォロー、お互いに影響し合うもののあいだで、しすぎることもなく、されすぎることもない、自分も相手も「私の踊り」を表現することができる状態がサルサを踊っていて感じる最高に楽しい瞬間なのかもしれない。

相手を抑圧しない丁度いい加減のリードが相手に余白を生むことになるだろうし、それならリードも分かるし、「私の踊り」を表現するための余白という自由もある。そんなリーダーのリードを受け取って表現された「私の踊り」は、リーダーに「これでいいんだ」と自信をもたせてくれるし、ある意味では「リードする」という意思が薄れていく、なんというのだろう「こういう感じでいいのかも」という心のゆとり、余白を感じられるようになっていくことで、リードする側もリードをしながら「私の踊り」を表現していける余白を手に入れていく。

お互いの踊りのスキルによっては、リードする・される、フォローする・されるのあいだを揺れ動くことになるけれど、それもまた一つの楽しみでもある。リードすることで相手が楽しそうに踊ってくれるという楽しみもあるだろうし、そうやって相手をフォローすることもある。不慣れなリーダーのリードを汲み取ってフォローしてくれるフォロワーはその時2人のダンスをリードしているリーダーになることもある。

相手を気遣うし、自分も踊る。一つの音楽に包まれながら2人の世界で、どちらか一方ではなく両方、「気遣う」と「踊る」、「相手」と「私」のあいだを揺れ動きながら踊ることがサルサなのかもしれない。2人の丁度いい状態を保ち続ける。そのためにはお互いに絶えず調節を続けていかなければいけない。

散文になってしまったけれど、様々なものの中に中動態的なものを見出すことができるかもしれない。と言いつつ「これが中動態」というのをちゃんと理解していないのだから、それは違うんじゃないのと思うこともあるかもしれない。それもまた色んな人と話をして考えていきたいし、そうすることで何かが見えてくるのかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)