⑦ 断ち切られた循環と影響の輪を偶然の網ですくう

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2022.12.7 更新

⑦ 断ち切られた循環と影響の輪を偶然の網ですくう

赤石嘉寿貴

12月、農園の中の景色が変わっていく。太陽が燦々と降りそそぎ太陽エネルギーも暑さも一番高まる夏を過ごして次の世代へと生命をつないだ畑の草達(とくにツユクサのことを思って)の姿はいつの間にか消え去り、その生命はあの太陽が降り注ぐ季節を待ちわびてしばらくは土の中で横になり目覚めるのを待っている。

景色が変わったとはいえ依然として畑は緑に覆われている。夏の草が蓄えた栄養、大地に根を張ることで耕された柔らかい土という最高の舞台を用意され、夏の草と入れ替わるようにして大地を覆うのはイタリアンライグラスだ。ふさふさと細長いたくさんの葉っぱで日照時間が減ってしまう冬でもなるべく多く太陽光を浴びようという算段か。

松沢さんがよく言われているように福津農園の畑は常に「緑のソーラーパネル」で覆われている。緑のソーラーパネル=植物であり、太陽光エネルギーから栄養を作りだし、根っこで土を耕し、地中の微生物たちを育む。雨が降ったら土が跳ねるのを防いでくれたり、枯れて朽ちたあとにできる根っこが作った自然の水道管が水の通り道となって、大雨の時の水を地中に戻したり、地中から水分を吸い上げてくれて適度に地面を湿らせてくれる。他にも、鶏のエサになったりと人間にとってはソーラーパネルに比べるとたくさんの利用価値がある。今のところソーラーパネルは使用期限があり、技術が進歩してきたとはいえ20年~30年で寿命を迎える。それじゃだめだとリサイクル技術ももちろん進歩していくし、それに取り組む人はきっといる。

この世界では朽ちるということは必然で、人間が作ったものでもそれは同じだ。いずれ壊れてしまう。長い長い長~い目で見たら人間が作ったものでも自然に返っていくのかもしれないけれど、その時にはもう「人間」はいないかもしれない。その点、自然に暮らす生物は自身の生命を次の生物の生命へと受け渡していく大小様々な大きさの循環の中にいるようだ。鶏に食われる草や虫は消化、分解されることで土の微生物たちの食べ物となって、その排泄物がまた植物の栄養になり植物は虫や動物の食べ物になってというサイクルが繰り返される。傷ついたカエル、傷ついたも鹿や野うさぎだって何ものかに食べられ分解され、他の生物に利用されやすいものになっていく。

自分が今こうしてパソコンの前にいて何かを考えることができている源である生命もまた過去に生きていた生物の生命が出たり入ったりしながら作られたものなのかもしれない。

影響とは偶然的なものか

福津農園に来てはや9ヶ月、ここでの暮らし、教えを日々自分の中に取り入れることで今まで考えたこともなかったことを自分は考えている。植物や動物、昆虫、たくさんの生物に囲まれた農園の中にいるとそこかしこで互いに影響し、影響されあって、その影響をまた自分自身も受け取ってまた何かに影響を与えていっているんだということを実感する。都市での生活もまた何者かの影響のもとにあるとは思うけれど、それはほとんど同じ「人間」からの影響でそこには他の生物の存在を感じることさえなくなってしまうほどに人間からの影響が大きいのかもしれない。

他の生物との関わりがほとんど断たれてしまったことが視野をせまくしてしまっている可能性はある。人間の活動だけを視野にいれてそれに不都合なことや気に入らないものを排除しようとしてきた。自然にたいするそうした態度がいつしか同じ人間にも向くようになってきたことで、自然との断絶がいつしか人間関係の断絶にもつながっているのかもしれない。

他の生物、人間の営みが自分自身に偶然にも影響が及ぶことは考えてみると恐ろしい。良いか悪いかはさておいて、その影響をうけて自分の行動も変わってしまう可能性はある。それを恐ろしいと思うのか面白いと思えるかは人それぞれなのだけれど、怖いと思う感情の方が勝ってしまって「これはこうでなければならない」「こうあるべきだ」ときちきちと型にはめることで、その型にはまっていることで安心してしまいたい欲求もある。

型を持つというのは、他の型もあることを知るためにあるものだと思う。サルサを学んでいく時、教えている時に感じたことは何かを学ぶためには上達していくためには一度型にはまることが早いような気がした。何かをやっているとどうしても色んなことが気になってしまう。同時に色んな型にはまろうとしても一つしかないこの体と頭はどうも型にはハマりきらずチグハグになってしまう。一度はまることの有効性は自分の型と他の型の差異を知れること、自分はこうだけど、そっちはそうなっているのか。と違いを知るためであって、違っていることを退けることではないような気がする。

偶然と能動

様々な生物(人間も含め)の営みが自分の計り知れないところで行われていて、生物は互いに影響しあってそしてこの世界は廻っている。

われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。

(國分功一郎著「中動態の世界」意思と責任の考古学)

偶然のように降りかかる自分以外からの影響を断ち切ってしまうことはこの世界を生きている自分達には叶わない。切り離せないものを無理やり切り離そうとするから傷みをともなう。偶然性へと心を開いていくことは他者の影響をみとめることに繋がり、そんな影響を与える他者はどんなものなのかという違いを知ることに繋がっていく。

自分が数え切れないほどの影響を受けてきた、受け続けているということは想像に及ばない。親から生まれ、兄弟、親族と暮らし、家族という小さな社会から保育園や幼稚園、学校と少しずつ大きくなっていく社会の輪の中でたくさんの人から影響を受け続ける。その中で「自分で自分自身でこれを決めたのだ」と言うことはできないのであって、そう言えるというは自分に影響を与え続けてきた偶然的なものごとという原因に思い至らないからだ。

自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなく、度合いをもつものとして考えられねばならない。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らして、能動の部分を増やすことはできる。

(國分功一郎著「中動態の世界」意思と責任の考古学)

偶然を受け入れるというのは運命に従うような感じもするがそうではなく、その偶然的な出来事を受け入れたうえで自分はどんな反応をすることができるかは選択することができる。

偶然が作り上げる網

自分はなぜ今ここにいて農業を勉強したり、中動態の世界なんて本を読んだり、こうしてコラムを書いているんだろう?と考えるとたった一つの原因というものはなく、今現在にいたるまでにある無数の出来事の連なりがそこには見えてくる。もしあの時あの言葉を受け入れていたら、もしあの時のあの出来事にたいしてこういう反応を示せたなら、なんて思えることはたくさんある。

だれかの敷いたレールを走っていくというはスピノザ的に考えると他者の本質が原因となる部分が多く表現された状態であるところの受動ということになるのか?

ここまでのところ自分の本質が原因となる部分が多く表現されるように能動的に行動してきたように思う。というかそうしないことにはなんだか生きづらくてしょうがなかった。受動でいることはなんだか辛い、それを感じないようにするためにたくさんの寄り道をしているし、これからも寄り道だらけの人生かもなと書きながら思っている。

これまで出会ってきた人のお陰でこうして「中動態の世界」なんて本を読んでスピノザの考えた言葉を知って、自分の行動というのはそういうことだったのかと思うことができている。振り返ると一つ一つの偶然は必然的に見えてくる。「思いがけず利他」を読んだときにも同じように感じたけれど、日々の無数の偶然的なできごとである目の前にあるものはその時は必然的なもののように捉えることできない。

今ここにいる偶然は網の結び目のようにそれだけでは何も意味をなさない、偶然から偶然へと手を伸ばすように新たな結び目を作っていき広がっていき、全体を見た時に初めてたんなる結び目だった個々のものは「網」を作るためにあったのかとその必然性を理解できる。

必然性を受け入れ、偶然性を楽しむ

國分功一郎さんが「はじめてのスピノザ-自由へのエチカ」の中でも述べられているように

魚には水の中で泳いで生きるという条件が課されています。それは確かに制約であり必然性です。ですが魚が自由になるとは、その必然性を逃れることではありません。魚は水の中で泳いで生きるという必然性にうまく従って生きることができた時にこそ、その力を余すこところなく発揮できる。魚を陸にあげれば死んでしまいます。人間にもこれと同じような必然性があるということです。・・・その人の体や精神の必要性は本人にもあらかじめ分かっているわけではないからです(第二部定理二四)。誰もがそれをすこしずつ、実験しながら学んでいく必要があります。

(國分功一郎著「はじめてのスピノザ-自由へのエチカ」)

偶然がその時はなんなのか分からず、あとで必然であるかのように思える。必然性を知るためには実験をするしかないようで、そういう意味では偶然に起こる出来事を経験すること、その偶然性に実験的に望む、能動的であることが必然性の発見に繋がっていくということか?

自分にもこの世界にも「ある必然性」が流れていて、そのわからないけれどある必然性を受け入れて、それを知るために、発見するために偶然性へと自分を開いていくという姿勢が自分を自由でいさせてくれる。

「自由だなこの人」と言われる時、自分はまんざら嫌な気はしない。そんな生き方をしている。実験し続けている。自分の人生を面白がることができるようになってきたからなのかな。

と答えはでないまま、自分に影響を及ぼし続けてその影響の中にい続けているという意味では中動態の世界を生きているかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)