㉕ 柔らかな世界と居酒屋
HOME ‣ 連載 | サルサソース ‣ ㉕ 柔らかな世界と居酒屋 (2024.9.4)
いつだったか忘れたが8月中だったことはたしかだ。サルサのイベントの後日、疲れきっていてお日様が出てるうちは寝て過ごして、夜に腹が減って食べものを探すゾンビのように街へでたものの曜日も曜日だったのかチェーン店の居酒屋くらいしか(チェーン店の居酒屋ディスってるわけではない)やっていなくて、一人でそのお店の暖簾をくぐった。
予想通り一人で飲んでご飯を食べているやつなんて僕以外には見あたらず、2人で来ている人達が3組いるL字のカウンター席に通され、ちょうど角っこに一人で座った。一人でいるぞ、なんてことに気を止める様子もなくそれぞれに雑談を肴にお酒を飲んでいるのか、酒を当てに雑談をしているのかは分からないけれど何となくそこに一人の空間ができあがった。
居酒屋という場所は不思議だなと思う。1mくらいの手の届きそうな距離にいるのにそれぞれの人達の会話が続いていく、隣の人に聞こえるのに、隣にだれもいないかのように会話はなされる。一緒に来た人達のなかに閉じられた空間にいるのだけれど、隣りにいてその話を肴に酒を飲んでいるやつもいる。自宅という他人が入ってこない空間と何が違うのだろうか?
きっと自宅にいても同じような話はできるのだろうけれど、より深刻な話になってしまうんだろうか?居酒屋の喧騒のなかで話すとその中に溶けていくような感じがするのか?それぞれが作り出す喧騒が心地よくて、普段とはまた違う話に花が咲くのかもしれないな。
少し酔いがまわったからなのか、一人の寂しさのせいなのか、そんな喧騒の中に一人いることによくわからない不思議な感覚が体を通り抜けた気がした。
隣では連載終了間際だからなのかヒロアカの話題で盛り上がっている20代くらいのきっと年が少し離れているけれども親しそうな男同士の2人組がいて「それはおれも見たぞ、そこまでは詳しくないけど」とか心の中で勝手に会話に参加したりしていた。
アニメが好きな二人でどういう関係なんだろうとか?社会人?いやなんか大学生みたいな感じもするなあとか、「じゃ緑茶ハイで」と同じものを頼んでいて、それ好きなんだなぁとか、こっちは一人でいるもんだから、初めて同じ空間に一緒になった二人の関係性を追いかけてみたりしていた。
また隣では20代と40代くらいの女性二人が話していて、「この間の成人式は・・・」とか「子供が生まれて・・・」などなど話をしていて、これまたどんな関係なんだろうなぁ?とぼんやりと聞いていた。
そんな時にボッチな自分を悲しんだというよりは、こんな関係性の中に今ココに自分が存在しているという不思議なのだろうか、このタイミングで今ココにいることの不思議。別に偶然とか、レアな話が聞けちゃった!とかそういう話ではなくて、自分がココにいる不思議としか思えないような感覚。
それもこれも脳がアルコールによって侵されただけで、まともな思考ができなくなってしまっただけという話かもしれない。こんなどうでもいい話にサーバーという限りあるリソースを無駄遣いしていることに申し訳なく思うけど、無駄なことって意外と無駄じゃなかったりもするということもある。
何気なくこの世界にあったその一瞬を切り取っておくことは鴨長明が残した「方丈記」と一緒で後の世で発見された時に「昔も今も人間ってやつは変わらず同じことしてるんだな」とか、もしかしたら「前よりは良くなってるのかもしれないな、イマって」となるかもしれない。
世の表舞台には出てこない暮らしがいつもこの世界の土台になっているのだから、こんなくだらない話が1つや2つあってもいいかと思えてきた。こころの中では方丈記と一緒にすんなと自分自身でツッコミを入れているのであしからず。
惑星と彗星
それではウォーミングアップが済んだところで本題に入ろう(いやもういいって)、サルサのイベントへ行って、踊り散らかし夜も更けてきたころに何となく話になった話。
サルサには様々なスタイルがあって、NYスタイル、LAスタイル、コロンビア、プエルトリコ、マイアミ、そして僕がやっているキューバンスタイル、リズムの取り方はだいたい同じで表と裏と呼ばれるリズムの取り方の違いこそあれ、1,2,3,(4を休んで) 1,2,3,(4を休む)、つまり、タン,タン,タン,ウン、タン,タン,タン,ウン(これで分かるか?)というリズムの取り方は同じで、違うスタイルであっても踊れるはずなのである。
ところがそれぞれの踊り方には型があって、直線的な動きのものもあれば、円運動をするものもある。キューバンスタイル(ペアダンス)は円運動なので、他のスタイル(直線運動)の人と踊るときよくぶつかる。その逆にほかのスタイルの人は「いや、なんかやたらぶつかってくるな、こいつ」と思っているかもしれない。
これだけだと分かりづらいので他に例えるなら、キューバンサルサは惑星の動きと似ている。例えば太陽と地球と月、自転をしながら公転する。リードとフォロー、簡単に分けると男性(リード)と女性(フォロー)、女性は男性にリードされて男性の周りを周りながら、自分自身も回転したりするし、男性も女性の周りを周りながらリードすることもあれば、自身が軸になって女性に周ってもらったりと惑星の運動と似ている。
円運動をしている惑星達、そこに直線運動的な彗星(観測範囲を広げれば弧を描いているのかもしれないが…)が流れてきたらどうなるだろう?そう衝突してしまう。
ということが他のスタイルのサルサを踊る人と踊るときには起こるのだ。
直線運動と円運動、ほどくと拾う
でもそうじゃない時もあって、それは単純に女性のフォローが上手なんだろうなと思っていたのだけど。例えるなら、彗星が引力に引きつけれらて円運動に変わってくれる的な、彗星がこのままいくと自分も自爆してしまうなと思って直線的に動くことから、緩やかに引力に引き付けられてくれる。
そんな感じで相手は人間なので彗星のようにこれしかしません!という感じではなく「合わせてくれている」から一曲を楽しくうまいこと踊りきれているんだろうなと。
そう思っていたのだけれど、「合わせているだけ」では「あぁ楽しかった」とはならないのがペアダンスで、ひたすら合わせ続けるということは相手の動きを拾い続けるということだ。相手が直線運動で、だいたいこんな感じに動くかなと思っていても、合わせ続けるだけだとこちらの動きが制限されているということだ。だからそのままでは苦しくなってくる。だから、こっちも少しだけその制限を解いてみる。解いてみると分かることがある。
相手も僕の動きを拾おうとしてくれている。
ペアダンスを踊っていてココがとても重要なポイントで形としてリードすることだけ、フォローすることだけをやっていると楽しさが生まれないのは相手の動きを拾うだけ、もしくは最近学んだ言葉で言うと「まなざし/まなざされる関係」のままでは、一歩先に進めない。
これをしたらあなたはこう動く、こう動くからこうして、それは、まなざし/まなざされていると言える。
最初はそれでいいのかもしれない、型を覚えることで型ができて、型を破ることができる。型がないなら型破りもなにもならなくて闇雲に動くだけになってしまう。それだとコミュニケーションがとれない、それは新しい何かなんだろうけれども。サルサには型があってまずはそれを覚えていく。
さっきの話に戻ると、一歩先の関係に進むためには「相手が動きを拾ってくれる」というところも必要になってくる。拾い続けるだけでは苦しいから、こちらも解いてみる。同じく学んだ言葉で言うと
「ほどきつつ/拾い合う関係」
何かを解く(とく)というのは「ほどく」ということだ。どちらを先に始めるのか、どちらが先に始めるのかは分からないけれど、僕はまずは拾うことから始める。曲が流れて踊り始め、少しずつ少しずつ相手の動きを拾い続けることでその人がどんなことをしようとしているのか、どんなことができるのかが分かってきて、ほどいても大丈夫なのかが分かってくる。
拾い続けることで、相手もこの人ならここまで動いてもいいんだなと思ってくれて二人の踊りに広がりが出てくる。それが「ほどく」ということなんだと思う。
ほどくと広がる。たしかに、「ほどく」ということばが使われる時は何かに縛られているということだ。物理的にも心理的にも縛られたものを「ほどく」時そこに広がりが生まれる。踊っていてもその曲を表現する広がりというものを感じる。表現するためにはたしかに色んな手法や技術が必要になってくるのでそのあたりも関係してくるのだとは思うけれど、「ほどく」ことが開放につながるし、ほどくためにはそれを拾ってくれる人やモノが必要なんだと
そこには程度の問題もある。完全に解ききっても拾ってくれる人もいるだろうし、解ききると拾いきれない人もいる。僕はこの相手に対してどの程度ほどくことができるのか?
相手が人間なのだとしたら、成長が必要になってくるし、逆の立場だったら成長する必要がある。いや、成長する必要なんて考えずとも、ほどき、拾いあうことで成長が促されるのかもしれないとも思う。成長という言葉ではなくて、楽しさや、幸福感、安心感、そういうものに置き換えるなら、ただ「ほどきつつ/拾い合える」関係になれるだけでいいということになるのかもしれない。
柔らかな世界
このカラダから溢れる何かを誰かに拾って欲しいと思っているのだからこうして書くのかもしれないし、言葉というものを操っているのかもしれない。すべての行為がほどく行為であり、拾われたいという思いの現れでだれもがそうしたいと自然に思っている。母親の体の中という安心できる場所から出てきた時、その体をたくさんの人がすぐに拾いあげてくれる。すかさず、泣くことしかできず何もできないこの体を母は包みこんでくれる。
生まれた時は誰だって全開にほどききっていて、それを必ず拾ってくれる人がいるということを成長の過程でなぜか忘れていき(残念なことに拾われない命があることもある)、拾われることを強く望んでいる。だれもがこの気持ちを言葉をこの存在を拾ってもらいたいと思っているのだとしたら、「ひろう」を供給する必要になってくる。拾ってもらいたい、ほどきたいと思っていてもそれを拾ってくれる人が少ない、需要と供給のバランスが崩れている。
だとしたら、僕がダンスを踊り始めるときのように拾うことから始めるのがいいのかもしれない。そもそも僕が拾うことができるようになったのは、よちよち歩きの僕を拾ってくれた過去の誰かがいたからなんだ。
拾うことでほどけるようになり、拾われたことでだれかを拾えるようになり、ほどきたそうにしている誰かの結び目をゆるめることができる。
僕らは生まれてからこの人生を進むためにバラバラになってしまわないように自分自身をきつく結んで縛る必要があったのだと思う。そこでできた固い結び目を解(ほど)いていくことがコミュニケーションで、たくさんの結び目がほどけるとまた柔らかな世界が取り戻されるのかもしれない。
冒頭の居酒屋はもしかしたらそんな世界だったのかもしれない、あれは柔らかな世界に迷い込んだ不思議だったのか…。
赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)