⑬ 石を置く

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2023.9.25更新

⑬ 石を置く

小山田和正

日記への興味

毎週月曜日にFMごしょがわらというコミュニティFMの「こころを調える」という番組に出演している。前任のお寺さんが海外のお寺へ赴任となるため、代わりにやってくれないかという話を頂いて、話がうまいわけでもなく、どうしようかとかなり迷った上で受けたのが、2021年10月。もう2年、回数にするともう少しで100回になる。
そのパーソナリティの方から、もし時間があれば日記のことを話してみたいと提言があったのが7月だったかもしれない。なんで日記?とずっと日記のことが頭にあったが、途中にお盆をはさんだりして、番組の時間内で日記の話題までは進まずに何週か過ぎた。
その間、日記のことがぼんやり頭にあるからか、不思議なもので日記の話題を聞くことが多くなった。まわりの方からも日記をはじめたという話を聞いたし、内沼晋太郎さんの「日記屋 月日」という店のことも知り、そのメルマガも購読し、知らない誰かの日記を読む楽しみも知った。リトルプレスを扱うような本屋で、個人の日記をまとめた様々なZINEが販売されていることも知り、何冊か買ってみたりもした。ちょうどその頃、WORKSHOP VO!!のZINEも置いてくださっている汽水空港のモリテツヤさんが、noteで日誌をはじめていた
なんとなく僕も日記を書いてみようかな?と考えていたところに、内沼晋太郎さんの「本日、2023年9月1日付で、株式会社日記屋月日を設立しました。」というツイートを見かけた。きっと日記には何かありそうだと思った。それが決定打だった。僕も2023年9月2日からnoteで日記を書き始めた
そして、2023年9月4日のFMごしょがわら「こころを調える」では、パーソナリティの方と日記についての話をした。

日記を書く

日記のことを調べてみると、書き方によって、一言(ひとこと)日記、3行日記、自己肯定日記とか感謝日記など、さまざまな種類があることに気が付く。
ほぼ日に「ほぼ日5年手帳」というのがあって、お寺の法務に関することは5年前からこの手帳に箇条書きで記録している。これは、去年のこの日に、これを行ったということが分かればいいだけなので、情報の積み重ね。データベースに近い。これもある種の日記と呼べるかもしれないが、日記に関して調べていると、日記というのは、どうやら過去の出来事の情報というよりも、自分の感情や思考のデータベースになるんだろう。
ほぼ衝動的にはじめた僕の日記ではあるけれども、なるべくその日の感情や思考を意識しながら、今のところ日記を書くことを毎日続けている。と言っても、偉そうなことは言えず、まだ20日間くらいだが、だんだんと日記を書くという行為自体には慣れてきたように思う。
ヴィジュアルがあった方が、あとで記憶を呼び起こす助けになるかもと思って、日中、気になったものの写真を撮っておく。夜11時過ぎくらいから、その写真をトリミングしながら、今日1日のことを振り返る。
僕の場合、まずその日の天候から思い出しはじめると書きやすいようだ。その天候から、芋蔓式にいろいろなことを思い出していく。思い出した順番にズラズラと書き出していく。前後の時間がおかしいこともあるけど気にしない。誰が読むわけでもないので、言葉の稚拙さや雑な構成も気にしない。誰か読者を想像すると、少し説明が必要な箇所もあるけど、その面倒は省略。自分だけが分かればいい。あまり考えずに適当に書く。もう1度、1日を振り返ってみて、もうないかなというところで終わり。一度読み直してから「公開」ボタンを押す。以上。
結局、1時間くらいかかる。でも、なんとなくこの1時間が僕にとって大切な時間、1日のリズムになりつつある。
もう少し僕自身の深いところにある感情や思考を記しておいた方が良いとは感じるけれども、自分の中でそこはせめぎ合いがあって、ちょっと時間と慣れが必要なのかもしれない。

石を置く

日記を書くことに何かを期待をしているわけではないけど、その効果ということに関しては、検索するといろんな情報が溢れている。その中でも、内沼晋太郎さんのnote記事「いまこそ、日記をつけよう」の文章が好きだ。なので、内沼さんの記事を参考にしながら、日記をつけ続けてこの20日ばかりの僕自身の気づきを挙げてみようと思う。

僕の場合、noteというオープンなスペースに記している。このサービスは文字を書くことに特化していて高機能で便利だなと感じていて、いつか使ってみたいなと思い、ずっと有料のアカウントにしていた。でも、その使い道がなかったこともあって、じゃぁ、今回の日記をnoteで、と考えた。それはそれで大きいわけだけど、それよりも、オープンな場であることを意識するからこそ、人を傷つけたりすることはもちろん、過度に僕自身を攻撃して傷つけたりすることがないのかもしれないと思う。どちらかと言うと、自らを切り刻みながら血みどろで歩いていくことを好む僕にとって、オープンであることは、僕自身にとっての安全であり、大事なことのように思い始めている。

内沼さんの記事には、「はじめに日付を置けば、あとはなんでも飲み込んでくれる、とても自由な形式です。」と書かれている。それを参考にして、僕自身も、それぞれの記事のタイトルは「日記 | 〇〇年〇〇月〇〇日」としている。日付でパッケージすることによって、僕がこの日にしたこと、あったこと、感じたことを自由に記すことができる。この日にこう感じたけど、明日はまた逆のことを言っているかもしれない。別の日には、その感情が深まっているかもしれないし、書いたことさえ忘れてしまっているかもしれない。「日記」というタイトルによって、それが許される場所になる。その日、その時に、僕が感じたことを記し続けること、その積み重ねが、他の誰でもない僕自身にとって大事なんだろうと思い始めている。

僕自身、たまに文章を依頼されて書くこともあるし、人前で話しをする機会も多い。それは当然、僕個人がどんな人間かは全く関係なく、僕の肩書きが書いたり、話たりすることになる。肩書きは、彼が望まれたことを話したいし、どこか褒められるようないいことを書こうという気持ちも出てくる。ところが「日記」というタイトルで書き始めると、その肩書きの存在が薄れて、剥がれ落ちて、どんどんいろんな僕が縦横無尽に横切っていく。これが僕にとってはとても気持ち良い。1日を思い出しながら、何もしなかったように感じる静かで平凡な日でも、案外いろんなことをしているし、考えたりしているんだなと、あらためて気が付く。自分が思うより一生懸命生きている自分で出会う。

日記は、寝る前、1日の終わりに書く。公開した後は、他に何もしない。そのまま寝る。これが僕にとって、とても良い習慣になりつつある。日記には24時間の全てを書くことはできないし、朝から今までのことを思い出し、書き記しながら、その日の整理整頓をしている感覚になる。以前までは、今日あったことを思い出しながら、考え過ぎてなかなか寝付けない日もあったけど、そういうのがなくなったような感じがする。「公開」のボタンを押したら、まぁいろいろあったけど、今日という日にさようなら。おつかれさまでした。となる。

内沼さんの記事には、荒川洋治『日記をつける』から引用されている。

日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、きれいになるように思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちの中に入りたいために、日記をつけるのだと思う。 荒川洋治『日記をつける』(岩波書店、2002)

全くその通りだなぁと思う。日記を書くことは、「一日のほこり」を取り払っているんだろうという実感が生まれつつある。

今日は今日で終わり。そのしるしに、ここにひとつ石を置こう。きっと、この石がいずれ僕のマイルストーンになっていくんだろう。

日記は続けられるところまで続けてみたいと思う。僕自身のために。

はじめて味噌をつくりはじめました。|2023.9.25 | 約4ヶ月が経過。だいぶ赤みが増した。もう味噌っぽい味になっている。

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小山田和正 linktr.ee
一般社団法人WORKSHOP VO 代表理事
元)東日本大震災津波遺児チャリティtovo 代表
法永寺(青森県五所川原市)住職
FMごしょがわら「こころを調える(毎週月13:05)」