⑫ 僕はいつだって共感するにはまだ早すぎる

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2023.8.19更新

⑫ 僕はいつだって共感するにはまだ早すぎる

小山田和正

バスの来ないバス停

5〜6年前、特別養護老人ホームで半年間研修を受けていた。1週間に1度、午前中はデイサービス、そこで皆と一緒に昼食を頂いたあと、午後は特別養護老人ホームで過ごした。スタッフの方々の細かな対応は多いに学びになったし、頭が下がる思いだった。毎回、僕自身の至らなさを痛感しながら、そこでの様々な経験は今に生かされている。

午前中はデイサービスの利用者の方々の輪に入って、様々な話を伺ったり、一緒に塗り絵をしたりゲームをしたりした。たびたび、利用者の方が突然「家に帰らなきゃ」と立ち上がって玄関に向かって歩き始める。そんな時、スタッフの方々は慣れたように、靴を履こうとする利用者の方に声をかけ、「もう少しで迎えが来るから、もう少し待ってみましょうか。」と気持ちを落ち着かせる。

午後は、特別養護老人ホームでテレビの前で利用者の方々と過ごしたり、一緒にタオルを折り畳んだりという時間を過ごした。ちゃんと話ができる方は多くはないのだけれど、一緒に過ごしているとポツリポツリと話をしてくれることもあった。「そろそろ娘が(或いは、息子が)迎えにくるはずだけど、今日は来ないようだ。」「改築のためにここに居るが、新しい家に入るのが楽しみだ。」

デイサービスでも、特別養護老人ホームでも、皆、一様に何かを待ち、待ち続けているようだった。

愛知県豊橋市の認知症カフェ「ぽかぽかの森 アンキカフェ」の敷地内設置されている「バスの来ないバス停」の取り組みを知った時(「バスの来ないバス停の利用者を見守る 地域の鉄道会社の取り組み」)、ちょうど「待つ」について考えていたこともあって、とても興味深くその記事を読んだ。続いて、つい先日、その取り組みがグループホームにも広がっていることを新聞記事(「バス停にバスが来ない優しさ 豊鉄バスの標識が介護現場を救う」)で知った。

認知症の方は、帰宅願望を抱きやすいとされている。今居る場所のことや人のことがわからなくなり、その不安から安心を求めて帰宅しようとする。ところが、既にその自宅や家族がなかったり、場合によっては行方不明になったりする。その対策としてドイツで始まったのが、「バスの来ないバス停」という取り組み。この「バスの来ないバス停」でバスを待ちながら、スタッフの方々とおしゃべりをしていれば、いつの間にか気持ちが穏やかになり、安心するようだ。

来るはずもないバスを待ちながら、待ち人たちは互いにおしゃべりをする。思い出を語りながら過去を懐かしむ一方で、これからバスに乗ってどこにいこうかと期待に胸を膨らませる。きっと、その楽しい時間は、僕たちが何かを待っていることさえ忘れさせる。あれ?僕たちが待っているものは、必ず来なければならないくらい大事なことなんだったっけ?

ぎきょくがよまさる

去年、2022年12月13日から、サミュエル・ベケットの代表的な戯曲『ゴドーを待ちながら(白水Uブックス)』を素読すよみする『ぎきょくがよまさる』というプロジェクトを始めた。素読すよみとは演劇用語で、抑揚や感情を抑えて、ただ文字だけを声に出して読むことを指す。

その素読すよみを、2週間に1度くらいのペースで、約半年間(全13回)をかけて、先般、2023年8月1日、なんとか最後まで素読すよみし終えることができた。その時の参加者それぞれの感想をまとめたものを記録として、ZINE『ぎきょくがよまさる〜ゴドーを待ちながら #一巡目』として発行した。

参加者全員が、これまでほとんど演劇や戯曲に触れたこともなく、ましてやそれを複数名で読み合わせたこともない中、探りながらの13回であったけれども、その1回、1回が僕にとって、かけがえのない大切な時間だったように思える。なぜ大切と感じるんだろう?と考えてみると、究極的に僕たち自身が一体何をやっているのか全く意味の分からない時間だったからかもな?とも思えてくる。いつかやってくかもしれない、やってこないかもしれない、そもそもそんなものはないのかもしれない意味を、期待せずに待ち続けるという時間だったのかもしれない。

ZINEにも書いたけど、僕は、濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』、更には濱口監督のインタビューや寄稿に強く影響を受けて、素読すよみをやってみたいと思い始めた。その題材として『ゴドーを待ちながら』を選んだのは、先にも述べたように「待つ」ことについてずっと考えていたからだ。

ただ、僕自身が実際にやってみることに、何かを期待して、何かを得ようと思って、戯曲を素読すよみで読み合わせていくことを始めたわけではない。全く初めてのことをやるわけだから、そもそも、それが僕にどんな変化をもたらすのかも想像できなかったし、いや、その想像すらも拒否し続けていたように思う。

じゃぁ、一巡目が終わった今はどうか?

いろいろ感じることがあることは確かだけれども、なぜか、それを言葉にしちゃうと、プツンと終わってしまうような気がして、どこか気持ちを言葉にすることを抑えている。ずっとよく分からないままにしておこう。今はそんな気持ちだ。

さて、この9月から、二巡目に入る。二巡目は、どんな気持ちになるのだろうか?

僕はいつだって共感するにはまだ早すぎる

以前、ある戯曲の読み合わせのワークショップに参加したことがあった。何の予備知識もなく、面白そうってだけで参加を申し込んでしまう僕も僕だが、実際に会場に行ってみると、参加者は皆経験の豊富な方ばかり。それでも、皆が、オドオド、キョロキョロしている挙動不審の僕を暖かく迎えてくれて、親切にいろいろと教えてくれた。

テーブルを囲んでの皆の挨拶も一通り終わり、皆にとって初見の戯曲が配られて、それを読み合わせをしていくことになった。全く様子が分からない僕は、「見てるだけでもいいですか?」とお願いしてみたが、配役の関係で、ト書きって何?という状態の僕がト書きを任されることになった。

さて、読み合わせが始まると、いきなり皆がその役になった。ほんとうに初見の戯曲なの?って思うくらい、皆がスラスラと声の大きさやスピードの緩急で感情を表現しながら、読み合わせが進んでいった。演技なのか、本気なのか、戯曲を読みながら泣き出す方もいて、僕はとてもびっくりしてしまった。これが演劇っていうものなのかぁと、そこにプロフェッショナルを感じた。

僕はその様子に圧倒されながら、なるべく皆の感情の流れを止めないように、なるべく言葉が詰まらないように全集中した。一言一言丁寧にゆっくり読んだけど、とにかくついていくのに必死だった。結局、僕は最後までその戯曲に入り込めないまま、ひとり取り残されたような気持ちになった。皆が役に入り込めば入り込むほど、僕の気持ちはなんだか遠くへ離れていった。

帰路、僕はこの時のなんとも言えない違和感を振り返った。初見の戯曲をその場で感情を入れながら読んでいくスキルに感服する一方で、演じるとはどういうことなんだろうか?と考えた。なぜ、そこがその声の大きさになるのか?なぜそこがその緩急になるのか?そして、なぜそれをそうだと判断して発声するのか?を考えた。

そんなことを考えながら、僕は自分自身のことを振り返る。初めて会う人の話を聴きながら「それは残念でしたね。」「それは辛いですね。」「それは悲しいですね。」と応える時、僕から発声される残念、辛い、悲しいはどの程度の深さから発しているのだろうか。反射的に、自動的に発声されてはいないだろうか。機械的に発声されていないだろうか。あるいは、そもそもその反応自体が僕の早とちりではないだろうか。勘違いではないだろうか。偏見ではないだろうか。そこに身勝手さはないだろうか。そして、僕の発声は、どの程度相手に届いているのだろうか。

半年間、『ぎきょくがよまさる』で『ゴドーを待ちながら』を素読すよみし、そこに記されている台詞を淡々となぞりながら痛感していたことは、僕が使う「共感」という言葉のどうしようもない軽薄さだった。きっと、僕が誰かの共感に届くまでには、共に過ごす果てのない時間の積み重ねが必要で、それを焦ってはいけないのだろう。それにはまだまだ遠く、だからこそ、素直になって、コトコト待つ。だけど、それはいつまでたってもちょっと足りなくて、僕はいつだって「共感するにはまだ早すぎる」のだ。

そんな僕自身をよく知った上で、その軽薄さを噛み締めながら、それでもなお、僕はあなたの共感に近付いていこうと思う。

はじめて味噌をつくりはじめました。|2023.8.15 | 約2ヶ月が経過。だいぶ赤みが増した。上の膜の部分にカビが生えてきた。

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小山田和正 linktr.ee
一般社団法人WORKSHOP VO 代表理事
元)東日本大震災津波遺児チャリティtovo 代表
法永寺(青森県五所川原市)住職
FMごしょがわら「こころを調える(毎週月13:05)」