サルサソース ⑮ ナスだけ、スギだけ、ヒノキだけ

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2023.8.7 更新

⑮ ナスだけ、スギだけ、ヒノキだけ

赤石嘉寿貴

夏になると暑いのなんだのと気温の話になる。いや冬でも春でも秋でも一緒か、いつだって天気や気温の話は尽きないものかもしれない。暑すぎても寒すぎても体調を崩したり、命を落としてしまうことがあるのだから、そんな話が尽きないのも僕らはそれだけ天気や気温の変化に敏感でいなければいけないということの裏返しなのだ。

暑くなったら冷やさなければとエアコンを使うけれど、外には暑い空気が放出される。そうして車も家も熱を放出し続ける。僕が今暮らしている農園と街の温度はあきらかに違う。コンクリート、アスファルトで埋め尽くされた街では夜になっても暑く、エアコンが必要だろう。さすがに畑には日陰があると野菜たちが育たないから直射日光で真夏の暑さを感じる。農園では日中も家の中に入れば死ぬほどの暑さではないし、夜になると外の気温は下がり涼しくなっていく、家の中に溜まった日中の暑い空気と外の空気が溶け合うと寝苦しいということはない。だまっていても涼しくはなっていくけれども扇風機くらいは使いたいところはある。

農園は一年中草に覆われていて土の乾燥を防ぐとともに地面の温度の上昇も抑えられているのだろう。

森の中での作業でも感じることだけれど、森の中に入ると気温が2~3℃は低く感じる。木の葉っぱが直射日光を遮ることで地面の温度の上昇を防いでくれる。程よく間伐された森には風も吹き抜ける。

人間が暮らしていくのには何かとアスファルトやコンクリで整えられた場所やなんかの方が便利ではあるけれど、やっぱり様々生物が暮らしていくためには植物は欠かせない存在なんだと実感する。

木はたくさんあるが…

畑にナスとピーマンだけを植えるとその植物が好きな生物が集まって来てしまったり、その植物だけが必要とする栄養などだけが畑から失われる。またその植物が必要とする栄養を与える微生物などが増えてたりすることで土壌に生きる生物を含めた生態系のバランスが崩れてしまう。同じよう山に杉と桧単一品種のものだけを植えることで何かが過剰に増えてしまったり、減ってしまったりとバランスを崩すことになる。

そうした結果回り回って人間に害が及ぶ。実をつける広葉樹が失われ、動物の食べ物が減り、食べ物を探し回ったあげく、畑の農作物が必然的に食べられたりする。

戦時中、戦後に木材が必要となって山の木を伐りつくしハゲ山を作ったことで水源涵養機能を失ったり、森林を失ったことで大雨や台風などにより土壌流出が起こったり災害が増えてしまった。さらに高度経済成長期の住宅需要などに答えるために天然林が杉と桧など人工林に置き換わっていった。

木を伐る人が少なくなってしまったためか、伐ってもお金にならないから人が去っていったのか、木材の利用量が減ってしまったから木材の価値が下がったのか、そのためか森は手入れされなくなっていった。日本の木材自給率は令和3年で41.1%ということだ、こんなにも山に木がたくさんあるのにあとの50%ほどは輸入している。輸入するほど需要はあるはずなのに、木を伐ってもお金にならない。そもそも働く人が減少しているのだから需要に応えられず輸入に頼っているということもある。

じゃあなぜ働く人が少ないのか…となぜなぜ問答が続いていく。そして働く人が少なくなってきているのは他の分野でも一緒で日本の人口が減少しているのだから必然なのだ。自然環境や食料、本当に僕らの暮らしに欠かせないものが当たり前にあるということを前提に光り輝いている産業があり、それに人々は集まる。他の産業、科学技術の応用が林業や農業などの一次産業を助けることもある。人それぞれに適正もあるのだから、ある特定の分野だけに人が集まることはないとは思うけれど、暮らしに欠かせない本当に大事なことは取り残されているのが現状なんじゃないのだろうか。

ああ話が脱線していく。

人間のためだけでは上手くいかない

人間が自分たちに必要としてやってきたことで、また自らに災難が降りかかる。木は欲しかったけど花粉は求めてないんだ。なんてそんな都合のいい話があるだろうか。今度は花粉はいらないから木だけが欲しいと無花粉の杉や桧を生産して植林しようとしている。なんなら成長速度の早いエリートツリーと呼ばれるものも作って植えようとしている。

様々な価値の基準があるが年輪の幅、目が詰まっている丸太の方が市場では価値が高いとされている。しかし、成長が早いということは年輪幅が開いた材になってしまうのではないだろうか。ただでさえ丸太の値段が安いというのにそれに拍車をかけるようなことをしようとしている。工業製品を作るように、効率的に大量生産をしようとする試みに近いような気がする。それこそさらに働く人が減っていく要因の一つになる。高性能な機械があれば大丈夫でしょと何でもかんでも機械にAIに頼るばかりでいいのだろうか。

無花粉の植物と聞いて思い浮かぶのは、F1と呼ばれる種を残せない農産物を思い出す。同じように成長して、大きさまでだいたい揃う、人間の都合に合わして改良された一代限りの工業製品のような野菜たち。無花粉の杉や桧も人間の都合にあわせて作られてはいるけれど、それが成長したときにどんな問題が起きるのかはだれも分からない、けれど人間だけの都合に合わせて改良されたものは何らかの影響を僕たちにもたらすのだと思う。

何かを欲しいと思う時、自分たちに都合の良いものだけを受け取るということはできない。受け取るものには色んな側面があり、欲しい物だけを得ることは不可能で望んでいないものや見えていなかった側面にあるものも引き受ける覚悟も必要なのかもしれない。

人間の為だけ、自然の為だけ、他の生物の為だけ、〇〇だけの為という一つの視点からでは何も解決し得ないのは、偶然に超絶なバランスがとれたこの世界が生まれたことを無視することになるのだと思う。すべてのバランスを取ることは不可能かもしれないけれど、なるべく多くのものとの間のバランスを考えることが幸せな世界を作るのかな?

暮らしも自然もお金も何もかもが大事で、何も選べないんじゃなくてどうバランスを取るのかが問題だ。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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