「悼む日」に思う「悼むこと」とは何なのか?(「Casa Akaishi」より転載)

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※以下、2023年3月12日に開催した当法人主催「悼む日」に関して、当法人理事:赤石嘉寿貴のサイト Casa Akaishi の記事:「悼む日」に思う「悼むこと」とは何なのか? より転載しております。

3月12日(日)晴れ

記:赤石嘉寿貴

今日は「悼む日」だというのに車を走らすことに夢中になりすぎて自分はすっかり忘れてしまっていた。昨日が3月11日だということを。

そんな風に過ぎてしまったことを思い、遅くなってしまったけれど、悼むことはいつでもできるんじゃないのか?知らない誰かのことを人は悼むことができるのか?という問とともに、今日の時間と場所をWORKSHOP VO!!で作った。

初めてのことすぎてそういうものをやっている自分達にだってこれが何なのか、どうなっていくのかなんて想像することができない。世の中にないものを作るというのはこういう感覚なんだ。僕らは現代アートをしているのか?そんな疑問も出てくる。「悼む日」とは何なんだろう?

そんな問も含めてこれからこの場所に足を運んでくれる人と共に考えたい。

小山田さんの問から始まった「悼む日」。その言葉ができるその前に「私たちは直接関係のない人たちを悼むこと(追悼)ができるのか?」という問いが持ち上がった。そこから自分も考えた。

真っ先に思い浮かぶこといえば父の死だ。生きている時というのはその人のことを思い返すことが少ない。当然あの家に「いる」ものだと思っているから、思い返さなくてもそこにはその人がいるんだと思ってしまっている。父が病院でなくなり、その遺体を車に乗せて自宅へ戻り、あれよあれよと葬儀は進む。悲しみはあるのだけれど、涙は出ていなかった。

それでも白い装束を着せて、お金をもたせたり、草履を履かせたりすることで、ここからいなくなってしまうんだという思いなのか何なのか分からないけれど本当の別れが少しずつ少しずつ訪れる。すると止めどもなく涙が溢れてくる。自分の身勝手な思いも言葉になって出てくる。「もっと話したかった」「早すぎるよ」「まだまだ聞いてないことがあるよ」なんて言っても遅すぎるんだろうけれど死者となった父の前では恥ずかしさも何もない自分の思いが込み上げてきた。

火葬までの間、家で一緒に過ごし、火葬場で焼かれる。そこではもうその身体には触れることも、見ることもできない、そんな寂しさなのだろうけれどまた涙が溢れる。

僕はこんなにもこの人がいなくなることを寂しいと思っていたんだ。愛していたんだとそこで気づいた。悲しむことのない、酷いやつだと思っていた自分の中にも人を悲しむという心があって、その心は人を愛することができているということの裏返しなんじゃないのかと思う。

不思議なものでその人がいなくなることで、生きている時よりも思い返すことというのは多くなった気がする。自分は何ができたんだろう?もっと側にいればよかったなとか、最初は後悔の念が多くて、なんとなく寂し気持ちが続く、それが喪失感というものなのだろう。それでもいつの間にか父ならこうしたなとか、そういえばこんなこと言ってたなとか、生前に掛けてくれた言葉やどんな態度だったかなんかが思い出される。徐々に応援してくれる掛け声となって自分を後押ししてくれているような感じなっていく。

身近な人の死を体験したり、思う時、それと同時に自分の生や死についても考え出す。自分はそうだった。コロナで仕事が低迷してきて、祖母が亡くなり、父が亡くなり、考えざるをえない状況だった。そんななかで食べ物を作れるようになりたいという思いが芽生えて福津農園で1年間過ごすことになるのだけれど。

生と死ということに向かいあいたい、それってなんなんだろう?と思うきっかけになった。

政満さんの哲学に触れたり農園の中での循環に触れるなかで、「生と死」とはなんなのかと自分なりの答えというものには少しは近づいた気がする。人が思う「生と死」に答えはないのかもしれない、それを考える人それぞれの死生観はあるだろう。どんなに物質が循環するものだと目で見て知っていても、人の死、身近な人がいなくなってしまうことはどうにも悲しいものだ。今ならそういう感情が自分にも備わっていたんだなと思える。

たまに妻から「カズって宇宙人だよね」と言われることもあるけれど、自分も人間なんだなと思う。いやまるで自分が宇宙人みたいな語り口になっているけれど、正真正銘の人間だ。と思っている。う、怪しい。

「悼む日」悼む場所と時間を用意し、その中の椅子に腰掛けた時、となりには空っぽの椅子があった。椅子にはだれも腰掛けていないはずなのに自分はそこに父を座らせていた。特に何を話すでもなく、一緒に中央のテーブルを眺めている。何だかそれだけでフワッと暖かくなるような感じがした。もしかしたら、近くにあったストーブの暖かさだったかもしれないけれど、亡き人と過ごせる場所であるのかもしれない。

もしかしたら、隣り合った椅子に腰掛けた同じように悼みに来た人同士の何気ない会話は生まれたかもしれない。そうやって、互いの知らない誰かを悼むことがあったかもしれない。皆同じような思いを持っているんだねと悼むことで人と人は繋がっていくことができるのかもしれない。

もうこれは想像でしかない。これから色んな人が参加する場になるかもしれない「悼む日」のその時そこではどんなことが起こるのか、見えないなにかを思うととてもワクワクする。

悼むことはこの世にはいない、見えないだれかを思うことだ。その人の良いところだって悪いところだって思うことができる。思い出は美化されるものなのかもしれないれど、自分は父のどんな部分でも良いことのように思えてくる。そう思えない人もいるかもしれないけれど、その人達が生きてきた人生に思いを馳せるときそういう人であったといことはそれなりの環境があったんだなと想像するだろう。周りの環境、生きている人、亡き人、いろんなことから影響を受けて今の自分があるのだから、周りの人間も言うには及ばずだ。

悼むことでなにが芽生えるのか?あなたは「悼む日」になにを感じるのだろうか?

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