サルサソース ⑪ 僕は木こりになる!甘い蜜も吸いながら

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2023.4.16 更新

⑪ 僕は木こりになる!甘い蜜も吸いながら

赤石嘉寿貴

酸いも甘いも、辛いも塩っぱいも

人の人生が100年少々で終わるのだとしたら、たかだか1/4程度しか生きていない自分が人生の面白みの何を知っているかと言われようとも「人生とは何が起こるか分からないから面白い」と言いたくなるくらいには自分の人生を面白いものだと思えるようにはなったのだろうか。酸いも甘いもまんべんなく味わってきているとは言えるだろうか。

甘いだけの人生ははたして味わいのある人生なのだろうかとふと思う。「酸い」や「苦い」や「辛い」そういった人生の成分の一つに「甘い」があるのだとしたら、「甘い」を摂取しすぎることに伴う何らかの病気のようなものが蔓延してしまうような気がする。たとえば糖尿病を患った時のように様々症状があらわれて自分自身の行動を制限してしまうこともあるかもしれない。

全部が全部同じ分量必要かと言われればそうではないと思うけれどある一定のバランスが必要なんじゃないかとは思う。と今は言えるけれど辛酸を嘗めている時にはそんなことなんて考えられなかったというのも事実だし、その刺激が強すぎると体調を崩してしまいかねないことは確かだ。それでも生物の身体というものは回復するようにできているのだろう。傷ついた体も心もいずれは治る。

先日読んだ本に「死の欲動」という言葉が出てきた。フロイトの言葉で、彼はそれをこのように考えていた。

「死の欲動とは生物(有機体)が無機質に戻ろうとする欲動である。そして、それが外に向けられた時、攻撃欲動となる。」

生物が無機質に戻ろうとするということを死に向かうと捉えるなら、僕らは死ぬために生きているとも言える。人間は生にいろんな意味を付けたくなるしそれも生きるための一つの方法なんだろうけれど、人をただの生物として見るのだとしたらいずれは死んで、本来ならその身は土に帰ってまた他の生物に利用され他の生物の糧となっていく。

死に向かって生きていることは確かなことで、様々な味を味わうことはその過程の一つだと思えば強い刺激も一時のものなんだなと思えるようになる。その中でたまに甘いを味わうことでその旨味も倍増する。料理をするにしても食材と調味料のバランスというのはとても大事なことだ。ほんのわずかな塩っぱさや辛さ、酸っぱさや甘さが料理の味を左右することを考えれば人生の味付けにも様々な調味料が必要なんだと理解できる。

「木樵にならないか」とやってきたイベント情報

福津農園の研修をしながら徐々に山への関心も湧いてきていた。僕の暮らしていた実家がある場所が海と山が近くウニやアワビ、昆布、ワカメなどの海産物も豊富に採れる場所で、「森は海の恋人」という本を読んでいたこともあって山にも関心があった。畑となる場所はたいてい山と海の間にある。そうなると山を無視することはできない、畑をやるにしても海の恵みを頂くだとしてもその上流にある山と森との繋がりを意識することはとても自然なことに思える。それらすべてが一人の人間の手に負えないものだということは分かってはいるけれど知ることはできる。

そんな理由で研修を終えて実家のある青森へ帰ろうかと思っていた時に新城キッコリーズという会社と新城市役所が主催する「森の見学会&座談会」の情報を手に入れた。僕はまたしてもサルサソースの味を深めるスパイスに出会ってしまったのだ。

そのイベントへの参加がきっかけで新城キッコリーズの田實さんの森にたいする考え方やその人柄に惹かれ、僕の中に「この会社で働きながら林業を勉強したい!」という衝動的な思いがムクムクと湧き上がってきた。湧き水だって滔々と流れ続ける。湧き出た思いも止めることなどできるはずもない、そんな思いを汲み取ってもらえたのか僕は新城キッコリーズで働くことが決まった。僕は新城キッコリーズに潤いを与えることができる水となることはできるのだろうか?逆に新城キッコリーズという水を僕は上手に身体に取り込むことができるのだろうか。

水が合う合わないとはよく聞く話だ。昔は暮らす場所それぞれの近くに湧き水や沢の水があった。雨が山に降り注ぎ、森を通り過ぎどこからともなく湧き出て川になる、その過程でその場所に暮らす微生物たちを水に取り込みながら、その地域に住む人々の体へと取り込まれていく。その地域の水を飲み続けることはその地域の微生物と共生することなのだと思う。今は塩素消毒などが施されてそういうことはないとは思うけれど、福津農園では沢の水を生活水として使っている。たぶんだけれどこちらに来た頃、妻は水が合わず一度お腹を壊している。もちろん最初はそんなことが起こるけれどその後は何事もなく過ごしていた。

ある程度の度合いはあるだろうけれど飲む水がどんなものであっても人はたいてい慣れる。僕の場合は飲めない水が2回くらいあったけれど、こういう水は飲んではいけないんだなという教訓は得られる。そうして動物たる人間はたしかな水を選び取る嗅覚を身に付けていくのだろう。それでも初めて飲む水になれるには日にちを要するはずだ。

僕は何を交換しているのか、そこから生まれるもの

そんなこんなで4月から再び福津農園の松沢さんのお宅にお世話になりながら、今度は木樵(きこり)となってしばらくは愛知県の新城市に身を置くことになる。自宅の一室に住まわせてもらえることに感謝。お役にたてることがあればそれをやっていくということが条件で、お金がかかるわけでもなく、むしろ人を一人住まわせることで余計に負担が増えるのではないかという思いはある。それでもお金ではない何かを僕は交換することができるからこそ再びそこに住まわせてもらえるということなのだろう。

今読んでいる柄谷行人著「力と交換様式」という本の中で様々な交換様式が登場する。人と人との間、人と自然の間で交換されてきたものには何か見えない霊力が働いているらしい、たしかに松沢さんと僕との間には何かしら交換できるものがあってそこには不思議な力が働いて、僕は有り難いことにそこに住まわせてもらうことができている。資本家と労働者という関係でもない、これが新たな交換様式Dなの?とまだ最後まで本を読み終わっていない僕は今の所勘違いしているのかもしれないけれど、お金、貨幣と労働力の交換の間に働く力とは言えない力がそこには働いているのかもしれない。

僕がここに住まわせてもらうこと自体が貴重な体験でもあるし、外に学び行くことも貴重な体験になり、すべては自分の経験になり、こうして書くことで何かしらが循環していくのかもしれない。たえず循環する社会、何もかもが滞りなく循環する社会が人間やこの地球に暮らす生物にとっても必要なのかもしれない。今のところ循環の和を切り刻んでいるのは人間だけなのだから、マスクをきちんと着けましょうなんて生活様式ではない「新たな生活様式」を見つけなきゃいけないのだと思う。

新しい仕事の厳しさを甘い生活が中和してくれる。酸いも甘いも味わうことでどちらの有り難さも本当に分かるようになってきた。そして、どちらも僕のサルサソースを濃厚なものに仕立て上げ、様々なものがバランス良く溶け合ったその極上のサルサソースは味わってくれる人の味覚を刺激してくれるものになってくれると思っている。

ということでサルサソース・木樵編がスタートする。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせらた。2023年3月愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで研修を終え、現在は山について学ぶべく新城キッコリーズにて木こりとして研修中。 Casa Akaishi(BLOG)

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