② 畑や田んぼが生みだすもの

2022.7.3 更新

② 畑や田んぼが生みだすもの

赤石嘉寿貴

ニュースでは梅雨明け宣言が続々と伝えられていて、東海地方は平年よりも22日早く、昨年より20日早い。7月前だといういうのに真夏日が連日続いている。ジャガイモは雨が降りすぎると土の中で腐ってしまうというので梅雨の雨にあたる前に収穫してしまうのが一般的らしいのだけど、6月に入って雨が降ったな~と思う日は片手で数えるほどしかなかった。そのためか、6月末になって収穫しても腐ってしまって食べられないといったジャガイモはほとんどなかった。

「何十年、何百年に一度の〇〇」なんて言葉を毎年聞くようになっている。気候変動、地震や森林火災やなんかは「自然災害」と呼ばれていて、あたかも自然がかってに起こすもののような印象を持ってしまう。人間が石炭、石油エネルギーを手に入れる前までは、自然がたまに起こす災害だったのかもしれないけれど、今はどうなんだろうか?

地球に住む生物の一員として見た時に自分達のライフスタイルがあまりにも自己中心的、人間中心的になってしまっていて、その活動が地球の環境に負荷を与えすぎている。それはすでに自分が言うまでもなくたくさんの書籍やその道の専門家などによって言われているし、すでに地球環境のことを考えて行動している人たちは大勢いる。

人間中心的な考え方から離れることは、人間を含めたすべての生物との共存・共栄への道へと目を向けさせてくれる。前回の生物多様性という視点も自分達の考え方を切り替えてくれる重要なものだった。

生物多様性に関わる松沢さんの考え方に「農業の外部生産」という言葉がある。

経済用語に「外部性」という言葉からなる「外部経済・外部不経済」という言葉がある。そこからインスピレーションを得て作られたのが「農業の外部生産」という言葉だ。

経済学における「外部性」とは、個人や団体の経済活動が、まったく関係のない第三者に対して何らかの影響を及ぼすことを指す。経済学における「外部」は、取引が行われる市場の外側を意味している。
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農業で生産するものは作物だけじゃないの?と自分は思っていた。確かに農業というのは作物を生産する。でも「作物を生産する」ことだけを考えていくと回り回って自分達が住むための場所を自分達の手で壊してしまうことになる可能性がある。

例えば、自分達がスーパーで買い物をする時そこに並んでいる野菜はどういう風に作られているのかということを考えてみるだけでもいい。自分はそうだったけど、農業をやったことのない人にとって想像するということ自体難しいものだとは思うが、自分で農薬・化学肥料不使用の農作物を選び取らない限り、普段食べている作物というのは国が定めた残留農薬の基準の範囲内で農薬が使用されて作られている。国民全員が飢ないため、人々の生命を守るためには虫に食べられないように、病気にならないようにして、食べ物を確保しておくことが必要なのは分かる。

自分達が安定的に食べるための農作物を得るためには「虫」や「草」を農薬で排除しなければならない。というのが現在多数をしめる慣行農業の考え方かもしれない。

そこにはやはり他の生物への配慮が足りない気がする。この地球には「虫」も数え切れないほど一緒に生きているはずなのに人間が「農業」をするために生活する場が奪われていく。「草」も同じく薬で枯らされ、畑には草一つないのが「見た目に」美しいと思われ、草が生えていると虫が寄って来ると言われセットで悪者扱いされる。

自分達は「虫」を害虫、益虫とに分けてしまうがそれは人間にとってそうであるだけで、そういう言葉がなければ全部ただの虫であって、人間以外の生物というだけだ。草もただそこに生えているだけ。それに良いも悪いもない。

松沢さんが「ここの農園では蚊が多少湧いたとしても、それを食べてくれるトンボもいるから、他の場所よりは蚊の数は少ない。」という話しをしてくれたことがあった。

自分達にとっては刺されて痒い思いをする憎っくき蚊であっても、トンボにとっては大事な食料になる。蚊がたくさんいると困ってしまうが、蚊を食べてくれるトンボなどの生物がいてくれたら人間にとってはとても有り難い。そんなトンボが生まれてくる場所の一つが田んぼなのだ。

人間が実際にトンボを作っているわけではないが「田んぼ」から生まれてくるものを「生産物」の一つとして考えた時、田んぼが生産してくれるのは「お米」という食べられるものだけではなく、トンボやカエル、ゲンゴロウ、オケラ、ヒル、イモリ、カイエビ、イトミミズなどの生物も生産してくれている。他にも自分が見つけられないだけでまだまだいそうだけれど、今あげたように自分が福津農園の田んぼで見かけただけでもそこにはたくさんの生物が住んでいる。

なぜそんなにたくさんの生物がいるかといういうと農薬が使われていない環境があり、彼らにとって安全で安心できるからだろう。そんな場所で産卵して子育てをしたい、そして生活していきたいと思うのは人間も虫も一緒なのだと思う。

また、そんな環境は街中で暮らす子供達にとっても最高の遊び場となる。いろんな生物が住む場所を失った街中では虫やなんかを追い回すという経験もなくなってきているだろう。福津農園で月に一度開催されている会があり、数十組の親子連れが農園を訪れ様々なアクティビティを体験し自由に遊びまわっている。ここに来たら、田んぼという大きな水たまりとそこに生息するたくさんの生物がいて、虫取りカゴとアミを持って走り回らずにはいられない。

普段は目の敵にされる草もたくさん生えている。草はその根っこで水を地表まで吸い上げて土を潤すと同時に、土に根を張ることで少しずつ土は耕される。そして、土の間に隙間できることで酸素を送りこまれ地中の微生物などが生息することができる。さらには、虫や他の生物の住処や食料にもなっている。草を引っこ抜かず、刈ってその場に置いておけば地中に残った根っこや刈った草は少しずつ微生物に分解されて土になっていく。根のあった場所には空洞ができてまた酸素が送り込まれてまたあらたな草が生まれてくるための環境が整っていく。

草は様々な虫を呼び、そこでは食って食われてが繰り返され、食われたものはその体内で分解され排泄されて土の微生物に分解される。その蓄積によって大地が肥沃になっていく。

鶏を飼っていたら、草は彼らの餌にもなる。

松沢さんが言っていたが「餌にもなって、作物を育てる大切な土にもなるもの、そんな風に草を眺めると貴重な資源に見えてくるでしょ?」と。

植物は太陽光エネルギーを利用できる自然のソーラーパネルであり、虫や動物の餌になり、他の生物との共同作業で土を作る。そして、人間はそれを利用して作物を作る。自分達が命をつなぐための食べ物の起点には植物である「草」の存在が欠かせない。

地上の生物の活動を支えているのは地下の生物であり、地下の生物もまた地上の生物の命を糧にして生きている。そうした生命の循環が自分達の足元の大地で行われていて、命も支えられている。

虫も草も農作物に悪さをするからといって人間が全部排除してしまっては、それを好んで食べるはずの生物の食べ物がなくなってしまう。そして、その場からいなくなるか、死んでしまうかもしれない。そうなると生き残っていた悪さをする虫が蔓延ってしまうし、草がなければ野菜を食べだすかもしれない。

草も虫いなくなり生物の命の循環がなくなった場所では何も生み出せなくなり、最終的には人間もよりつかなくなる。

田んぼを「お米」だけを生産する場所としてとらえるのではなく、カエルやトンボ、たくさんの種類の生物たちも一緒に生産する場所として。

畑も「野菜」だけを生産する場所としてではなく、てんとう虫やモグラ、蜂、数え切れないほどの生物が住める場所として。

農業の外部生産を意識することで、たくさんの生命溢れる場所、多くの人たちが忘れてしまっている原風景が取り戻される。そこには自然と人間も集まってきて共存・共栄の生命の営みも取り戻される。

これからの農業を考えた時に「農業の外部生産」というキーワードはとても重要になってくるような気がしている。これまで生きてきた人たち、今を生きる人達の考え方が今起こりつつある自然環境の問題や人間同士の問題など、様々なものに現れているのだと思う。

一度立ち止まって、それぞれの場所でそれぞれの人が、今やっていることの外部生産は何かな?と問いかけることで今まで見えていなかったことが見えてくるかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)