③ 死と生が同居する畑

2022.8.8 更新

③ 死と生が同居する畑

赤石嘉寿貴

こちらに来たときは3月で家の居間ではストーブに薪をくべて暖をとらなければならないほど寒かった。ストーブを使わないときには厚着をしないと体が冷えてしまうほどの寒さで、青森で育ったとはいえさすがに冬は日本中どこでも寒いものだと思った。

家の外では冬が終わって春の陽気で目覚めた草や木達が畑や山を少しずつ緑色に染めて出していた。

今日は8月7日、二十四節気では「立秋」秋が始まる日ということらしい。まだ夏も終わらなうちから秋は始まる。それでもガラッと色が変わるということはなく、グラデーションのように色が緩やかに移り変わっていくように季節も少しずつ少しずつ変わり、肌や目、耳でその様子を感じている。

こちらに来て5ヶ月が経った。畑は春から勢力を増していた冬の草達が刈り倒されて、彼らに太陽光を遮られていた夏の草達が今度は自分達の番だと言わんばかりに成長を続けている。もう冬の終わりの寂しいような、何かが始まるようなあの感じはない。

太陽が燦々と照りつけるその間に夏の草達は伸びていこうとする。それは人間の邪魔をするためでもなく、雑草と呼ばれる存在になるためでもない。ただ子孫を残そうするためだ。自分の成長できる時期を見極めて芽を出して、地上では少しでも多くの太陽光を浴びるために幹を葉を成長させて、地下では根を縦横無尽に張り巡らせて土の微生物たちと共生しながら必要な栄養をもらう。最後は花を咲かせて虫や風の力をかりて受粉することで実をつけ、その中に次の世代の命をかくまう。そして、その場に種を落としたり、他の動物に食べられたり、風によって飛ばされたり、雨水に乗って流れたり、人間の靴の裏にくっついて移動したり、様々な方法で自分たちの種族を広範囲に分布させて生き残ろうとする。

人間も同じように自分の種を残したいという思うからこそ、ここまで人間は増えてきたのだと思う。命をつなぐためには、自分に必要な栄養を蓄えて自らを成長させて-人間的にも肉体的にも-パートナーと出会い、上手いこといけば次の世代へとバトンは繋がれる。

そのためには、何かを食べなければならない。植物も土の中や空気中から自身に必要なものを取り入れている。植物は根から微生物達が欲しがるエキス(?)のようなものを出して、自分に必要な栄養素をもらったり、病気から守ってもらったりしているらし。

松澤さんが言っていた。

「草はちぎっても生きてるでしょ?それだけでは死なない。植物は自身の体の30%ほどを他の生物に食べさせたりしている。自分の天敵である虫を食べてくれる虫に助けてもらうために自身を差し出す。残りの70%で十分生きることができる」

植物は自分の体内で作ったもの、自身の体(葉っぱや実、幹)を少しずつ差し出しながら上手いこと暮らしている。

人間は自分の命を差し出して食べるものを得ているのだろうか?体を動かしてエネルギーを使うことによって野菜や家畜を育てそれを食べている。その過程で殺虫剤や除草剤などを使って排除しなくてもよいものまで排除したり、必要な分を超えてお金に替えるためにたくさんの資源を使うことでエネルギーを過剰に費やしたりしている。それが「食べる」ことになっている。

でも「食べる」とは「食物」を栄養、エネルギーの塊としてみるということではないんじゃないかと思う。ご飯を食べる前に「いただきます」と言う。食べたり、飲んだり、もらったりする時にも使う。そのモノの命を頂くとはよく聞く話だ。

でも頂いているのはそのモノの命だけなのだろうか?

野菜を食べるためには、種を蒔かなかればならない又は苗を植えるでもいい。そのためには土がなくてはならない。その土はどうやってできたのだろうか?土はいつのまにか周りにあってごくありふれた存在でそれがそこにあるということにさえ気づかない。それがなければ歩けないし、家を建てることもでききない。もちろん野菜も(今は水耕栽培というものもあるか)。

家でも空き地でも土があれば草はどこにでも生えてくる。アスファルトやコンクリートの隙間、なんならそれさえも突き破って出てくることもある。草の生えるところにはそれを食べようと様々な生物が集まってくる。草を食べたり、生物同士が食べあうことで、その体内で分解されたものは排泄され土の微生物達の食物となる。
草自身も食べられたりしながら、自分の役目を果たしたら枯れ、その体は土の小さな微生物達の食物となる。

畑の上だけを眺めるだけでは地中の生物の存在というのは見えてこない、土に触れ、土に近づくことでそこには無数の命がうごめいていることに気づく。そして無数の「死」の積み重ねの上に「生」が支えられているということを実感する。

「若松英輔著・沈黙のちから」の一文にこうある

彼女にとって他者とは、目に見えるかたちで存在している者ばかりではない。そこには不可視な姿で存在する。死者と呼ばれる者も含まれる。この世は、生きている人だけの時空ではないことをこの詩人はせつなる言葉によって謳いあげるのである。

「土」から作られた「作物」は見ることもなかった「他者」の死を糧にしている。自然界は死を取り込むことで、死が生へとめぐる場所。そこでは生から死、死から生へと命が渡っていく。命はどこかに留まり続けるものではなく、サルサがかかったらどうしようもなく動き出してしまう体の中を駆け巡る音楽のように、命はいろんなものへと渡り続けて何者かを動かし続けてしまうものなのかしれない。

そう考えていくと、一つの野菜には無数の命がながれこんでいて、それを人間、その他の生物は頂いている。その作物だけの命ではなく、出会うこともなかった無数の生物の命を頂いていることになる。自分のからだはたくさんの命の集合体としてまた「何者か」に命をつなぐために生きているのかもしれない。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)