⑩ 物語と事実
HOME ‣ 連載 | あいだに漂う ‣ ⑩ 物語と事実 (2025.9.26)
1
大学生の時の話。
天文サークルにいた同期が流れ星について教えてくれた。
流れ星は二人以上で観測したものだけが「流れ星」として記録できる。たとえ夜空を一瞬よぎる光の筋を見たとしても、その時あなたが一人だったとしたら、その現象を「流れ星」と呼ぶことはできない。
その人はそう教えてくれた。
勤めていた頃、家の近くの公園で夜空を眺めたことがあった。芝生に広げたシートに寝転がると、視界は夜空で埋まった。
1時間ほど見ている間に、星が一つ二つ、三つ、流れた。隣には誰もいなかった。
だからそれらを「流れ星」と呼ぶことはできない。記録にも残らない。
流れていった星々の記憶だけが残る。
2
一人で見た記録に残らない流れ星は、物語のようだと思った。
複数人で観測し記録にも残る「流れ星」は、事実のようだと思った。
3
再び大学生の時の話。
指導教官に提出した卒論の初稿が返ってきた。おびただしい訂正、修正、示唆が、赤い文字で書き込まれている。
そのうちの一つについて。
序文の文章にあった「事実」という言葉に、二重線が引かれ、その上に「真実」という言葉が赤く、新たに書き込まれている。
当時のおれは、これは事実ではないのか、と思った。その文章の内容は、おれにとっては疑いようのないことで、けれども、他の人にとってはどうかはわからないから、たしかにこれは事実ではなく、真実。
おれにとっての真実。
と、当時のおれは思う。
じゃあ事実は?
事実はどこに?
と、当時大学四年生のおれは思わない。
最終的に卒論が提出できればいいと心の底で思っているおれは思わない。
ちなみにその「おれにとっては疑いようないこと」だった真実が、そのうちおれにとっても真実ではなくなっていくことに、当時のおれが思い至ることも当然なく。
いやはやなるほどと膝を打ち、教官の赤い訂正に準じ、ためらいなく「事実」を削除する。キーボードが音を立てる。そして軽薄に打ち込まれる「真実」。
4
今、手元に『広辞苑』がある。
第七版が出版された時、第七版より安いので購入した中古の『広辞苑(第六版)』がある。
それをめくってみる。
たとえば、
しん-じつ【真実】
①うそいつわりでない、本当のこと。(以下割愛)
たとえば、
じ-じつ【事実】
①事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。(以下割愛)
たとえば、
もの-がたり【物語】
①話し語ること。また、その内容。(以下割愛)
それをとじる。
第七版ではどうなっているのか。
変わらないままか、変わったのか。
5
少し前の話。
久しぶりに一人の時間を過ごした。
一週間、家や畑で、一人だった。
家事をして仕事をして本を読んだ。
ある時ふと、こんなに一人なのかと思った。
もし今倒れたら、妻が帰ってくるまで誰にも見つけてもらえないなと思った。もし今梯子から足を滑らせて頭を打ったら、いつ見つけてもらえるんだろうかと思った。
そう思っただけだから大丈夫。思うだけだからセーフ。
ここには、この一人には、物語も真実もないなと思った。もしかすると事実もないなと思った。
だからここには、共感と感動も、陰謀と暴露も、データもエビデンスも、ないな、と思った。
それ以前のものがあるなと思った。
軽い空腹や微妙な寒気、浅い眠りがあるなと思った。
これはたぶん大事なことだと思った。
忘れてしまうから書こうと思った。
いや忘れてしまうために書こうと思った。
6
問 一人で見た流れ星は物語か?
答 物語じゃない。それ以前にある記憶。
問 複数で観測した「流れ星」は事実か?
答 事実じゃない。それ以前にある記録。
問 真実はどこにある?
答 記憶と記録のあいだ。物語と事実のあいだ。つまり接続詞「と」のこと。
7
これまでのおれはちゃんと、「と」、の話が、できていたかな。
ねぇ。ディディ、ゴゴ。
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髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun)
・読み書き聞く人(office SOBORO)
