【報告】2024年1月29日「SUBURI STUDIO」開催致しました。

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正会員・サポーター会員

本日、2024年1月29日(月)21:00〜22:30、正会員・サポーター会員によるオンラインミーティング「SUBURI STUDIO(月1回開催)」を開催致しました。

今晩の参加者は4名。お知らせ(【告知】2024年1月「SUBURI STUDIO」のお知らせ)しておりましたように、今回から、伊藤亜紗著『手の倫理』を使っての読書会がはじまりました。

今日の主なトピックは以下になります。

今回語られたトピック(ファシリテーター:赤石嘉寿貴)

・私たちはものごとを一般化して、抽象化して捉えてしまいがち。
・小説は個人から始めることができる。人の物語をとおしてわたしを知る。
・「地域社会」はいい言葉に聞こえ、わかった気になる。それよりも「隣近所」から考えてみる。
・「多様性」という言葉のきれい事感、違和感、思考停止状態。
・目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある。という前提で人接すること、それは配慮というより敬意の問題。
・自分にとっては「手」というものが重要
・「ふれる」と「さわる」の違いがあらためてわかった。
・マーケットで商品をとってくれたお客さんがいて、あの人は「ふれていた」のか「さわっていた」のか?
・人にふれるという文化がない日本では技術が必要
・小学校の時フォークダンスで好きな人が来た時極端にさわれなかった。
・直接患部に手を当てて祈る
・バイク(の力)を信じてあげないと転ぶ
・道徳と倫理の区別
・私は主体でも客体でもありうるけれど、同時に主体でありかつ客体であることはできない。
・相手をしりながら、自分を知る。
・友達と喧嘩をして傷つけてしまい自己嫌悪になっていた時、母親にそのことを話したかった。なかなか話せずにいたけれど、母親に触れたことで言いたかったことが話せた。
・接触することでの相互嵌入
・触覚は、「魂を自己の外へと脱出させる感覚」
・日本語の「に」は入っていく感じ。景色「を」見る。景色「に」見入る。音楽「を」聞く。音「に」聞き入る。
・最近ふれてない。
・意識的な行為じゃないと記憶に残らない。
・ペアダンスをしていて、その人に触れることでなんとなくその人のことがわかるのは、触れることが単なんる接触ではなく、その人の内面に触れることだからかもしれない。

今までこの『手の倫理』が引用されている書籍に多く出会ってきましたが、実際に読み始めると、網の目のように思考が広がり、なぜ引用されることが多いのかが理解できたように思います。本当であれば、今回は3章までということになっていましたが、全く時間が足りず2章までとなりました。次回がとても楽しみになりました。

正会員・サポーター会員の方にご参加いただけます。お気軽にご参加ください。

手の倫理

手の倫理
著/伊藤亜紗
発行/2020年10月09日

初めて患者さんと出会ったとき、暴力をふるわれそうになったとき、“回復に耐える力”がなさそうなとき、私はどんな言葉をかけ、どう振る舞ってきたか――。当代きっての臨床家であり達意の文章家として知られる著者渾身の1冊。ここまで具体的で美しいアドバイスが、かつてあっただろうか!

【目次】

第1章 倫理:ほんとうの教育/フレーベルの恩物/「倫理一般」は存在しない 他
第2章 触覚:低級感覚としての触覚/内部的にはいりこむ触覚 他
第3章 信頼:安心と信頼は違う/「ふれられる」とは主導権を手渡すこと 他
第4章 コミュニケーション:記号的メディア/物理的メディア/伝達モード/生成モード 他
第5章 共鳴:遊びから生まれる「共鳴」/「伝える」ではなく「伝わっていく」 他
第6章 不埒な手:介助とセックス/不道徳だからこそ倫理的でありうる 他

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