⑦ そうだ、僕は東京を何も分かっていない。

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2023.2.7更新

⑦ そうだ、僕は東京を何も分かっていない。

小山田和正

東京

3〜4年ぶりに東京に行った。コロナ禍前までは会議やら研修やらで、年に数度は行く機会があったが、コロナ禍に入ってからはそんな機会もすっかりなくなったし、そもそも歳のせいか東京に全く魅力を感じなくなっていて、わざわざ訪ねる街でもないだろうという感覚でいたのだけど、やっぱり「飽き」がやってきて、トントンと僕の肩を叩いた。今回、それなりの用事はあったわけだけど、わざわざ東京に行こうと思い立った動機は強烈な「飽き」だ。

どこか観光に行く時はゆっくり贅沢な時間の使い方をしたいなと思うけど、東京に行く時は会議などの仕事の時間以外を隙間なくガチガチに予定を入れる。美術館、ギャラリー、ライブハウス、映画館などの予定を念入りに調べて、移動時間を計算して、もちろん寄り道したり友達に会ったりもするけど、だいたい自分の計画通りに動く。とにかく歩いて、見る、歩いて、観る、の繰り返し。僕にとっては東京はそういう場所だ。そういう場所でしかないと言った方がわかりやすいか。

でも、今回は久しぶり過ぎたのか、どこに行くにも迷ったし、トラブルも多かった。それでも、WORKSHOP VO!! 関連で言えば、PODCAST「WALKS」を2本も録ったし、「ぎきょくがよまさる」をリアルで開催できたし、なかなか頑張ったんじゃないかと思う。お付き合いいただいた皆さま、ありがとうございました。

ただ、眺めるしかなかった

そんな僕のガチガチに詰め込んだ東京滞在時の予定の中でも、結構楽しみにしていたのは、ちょうど僕が滞在した日から始まった渋谷スクランブルスクエアSKY GALLERYでの、『目[mé]』の展示だった。数年前、絶対に行くべきだと友だちに強く勧められて行った千葉市美術館での彼らの初の大規模個展『非常にはっきりとわからない』で、頭がおかしくなるような感覚を得てから、すっかり彼らの虜になった。今回はどんな展示なのかな?と、事前情報を一切入れないようにしてドキドキしながら会場へ向かった。

エレベーターの中でたくさんの外国からの観光客に囲まれながら46階の展望台まで上がる。エレベータが到着して、すぐに会場の入り口を探す。一瞬迷う。が、すぐに無数の時計の針が吊るされた『movements』が見える。あぁ、これこれ。これは十和田市現代美術館で見たことがある。ここがスタートなのかと、意気揚々と前進する。代表作である『アクリルガス』も展示されている。そうか、この通路をグルっと巡るように作品が展示されているんだろうと思い、そのまま進む。どんどん進む。そのあたりでだんだん気がついてくる。

あれ?作品名や制作年などが記載されているキャプションが一切ない。

どれが作品なのか分からなかった。これも展示作品っぽいけど、初めての場所だし、もともとあった備品かもしれない。作品だと思って、腕を組んだりしながら思慮深くジッと見ていたら、「それ作品じゃないんですけど(笑)」って嘲笑されるかもしれない。逆に、サラっと一瞥しただけのものが、作品だったりするのかもしれない。どんどんよく分からなくなってくる。いったい僕は何を見たら良いのだろうか。

そんな感じであっさりと一周してしまい、一体僕は何をしにきたんだろう?などとモヤモヤした気持ちを抱きながら、その何をしにきたか分からない恥ずかしさを隠すために、たくさんの観光客に紛れて、彼らと同じように46階からの東京の風景を眺めてみた。一人、何かを見るのでもなく、ボーッと立ち、ただ、眺めるしかなかった。

青森に帰ってきてから、今回の展示のコンセプトやレビューを探して読んだ。全て彼らの仕掛けだった。僕はまんまと彼らの作品の中に居たのだった。

ピザとは何か?

たとえば「ピザとは何か?」と問われる。僕は、小麦粉をイーストで発酵させて作った薄い円形の生地に、チーズや、トマトや、アンチョビや、マッシュルームや、タマネギや、オリーブなどを載せて焼いたもの、と答える。つまり、ピザをバラバラに分けて、「ピザとは何か?」に答えようとする。さらにその「チーズとは何か?」と問われる。僕は、牛乳を発酵させて作ったもの、とさらにバラバラにする。さらにその「牛乳とは何か?」と問われる。僕はそれをさらにバラバラにすることになる。分解しようと思えば、無限分岐、素粒子レベルまで分解できる。「分かる」は、「分ける」でできていると言われるのは、このことだ。

では、その分かるために分けた牛乳が、「ピザとは何か?」の答えかと言われたら、そんな気もするけど、そうじゃないような気もする。いや、きっとそうじゃないだろう。だって、それはつまり、ピカソの「泣く女」は油絵の具ですということだし、夏目漱石の「こゝろ」とは文字ですということだし、黒澤明の「七人の侍」とはフィルムですという理解に近い。

分かりたいと思う時、僕たちは分けていくしかない。だけど、分ければ分けるほど、分からなくなることもある。分ければ分けるほど遠くなっていくことがある。きっと分けることで、そのものの「姿」が崩れて、失われていくからだろう。「姿」を「調和」と言い換えても良いかもしれない。僕たちはその「調和」が失われたことにさえ気づかず、分けっぱなしのまま、それを分かったこと、としている。「ピザは牛乳である」のままにしておくこと。きっとそれを偏った見方、つまり偏見と呼ぶんだろう。

そうだ、僕は東京を何も分かっていない。

僕たちがそのものや、その人を理解しようとする時、分かろうとして分け続けた結果、失ってしまったその「姿」を、「調和」を、もう一度浮かび上がらせる必要がある。そのヒントが「眺める」にありそうだ。何かに意識を向けて「見る・観る」だけでは足りない。その分別を経て、もう一度ただありのままをぼんやり「眺める」の先に、そのものの「姿」「調和」が立ち現れてくるのだろう。

学校の古典の時間に、「長雨(ながめ)」ということばが出てきたら、それは「眺め」の掛詞で、「物思いに耽りぼんやりと見やる」という意味になると習った。「ぼんやりと見やる」とは、分別なく「ありのままに受け入れる」状態だろう。なるほど、「眺める」とは、「ありのままに受け入れる」状態のことを指すのか。その状態があって、はじめて、そのものの「姿」「調和」が立ち現れてくるのだ。

前述の今回の『目[mé]』の展示コンセプトがこんな感じ。

この世界の不確かさを見つめる作家の観点と、
非日常から世界を眺めることを可能にするSHIBUYA SKYの視座を重ねることで、
都市は一つの大きな運動体でありながら、その運動を担う私たちは
それぞれの固有の時を歩んでいるという世界の姿を「ただ、眺める」ことを促します。

そうだ、僕は東京を何も分かっていない。

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小山田和正 linktr.ee
一般社団法人WORKSHOP VO 代表理事
元)東日本大震災津波遺児チャリティtovo 代表
法永寺(青森県五所川原市)住職
FMごしょがわら「こころを調える(毎週月13:05)」