③ だけど、僕と彼女は同じ方向を見ている。

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2022.10.11 更新

③ だけど、僕と彼女は同じ方向を見ている。

小山田和正

あぁ、飽きたな。

男は、一生懸命にしゃべっている。周囲には16:9の比率で分けられたそれぞれの顔が並んでいて、その24以上の瞳は僕を直視しているようにも見えるが、もれなく全員が、それぞれのPCの画面を凝視して、男の声に耳を傾けている。

男は、まだ一生懸命にしゃべり続けているが、僕の耳はだんだんとその言葉を理解できなくなり、その男の後ろの背景画像が気になり出す。美しい黄緑の草にキラキラと朝露が輝いている。ZOOMに標準で用意されている画像だ。

男は、なぜたくさんある中からこの画像を選択し、背景に設定したのだろうか?草が好きなのか?フワッとしたキラキラ感が好きなのかもしれない。いや、待てよ、キリギリスなのか?そうか、僕は今、キリギリスが一生懸命にしゃべっているのを聴いているのだ。

よくしゃべるキリギリスは、場を和ませるためか、時折ジョークを挟む。僕はその度に、子どもの頃に、捕まえてきたキリギリスを虫カゴに入れて、上部の透明なプラスチックの窓から覗き込み、あ、動いた〜とか、あ、食べてる〜くらいの反応をする。

あぁ、飽きたな。と心底思った。

コロナ禍に入り、地方にいては参加することのできない講演会や勉強会がオンラインで開催されるようになった。同時に、僕の関わっている様々な組織の会議や研修会などもオンラインで開催されるようになった。

それは地方に住む僕にとっては大きなメリットがあった。交通費もかからない上、自宅の椅子に座ったままで、これまで話を聞く機会がなかった先生の講義を受け、今まで会う機会がなかった人たちと交流もできた。夢中になって、いろいろな場に参加した。

が、飽きた。今、完全に飽きたのだ。

ノルディックウォーク

先日、市包括の方々がお寺に寄ってくれて、少し長い時間、様々なおしゃべりをした。僕は何気なく、お寺でもいろいろな催しに取り組んでいるつもりだが、なかなかお寺の敷居は高いという話をこぼした。それを受けて、お寺で待っているより、自ら出かけてみてはどう?と、月2回開催しているノルディックウォークへの参加を勧められた。

ちょうど、レベッカ・ソルニット著『ウォークス 歩くことの精神史』に影響を受けるカタチで、歩きながらおしゃべりするPODCAST「WALKS(さ迷う)」を始めた矢先だったし、「歩く」ことに対して興味が高まっていた。ちょっとやってみようかな。参加してみることにした。

当日の朝、初めての参加者は記載してもらう書類があるので早めに来て欲しいと言われ、早めに集合場所に向かうと、既に40人ほどの年配の男女が集まり、それぞれに準備運動をしたり、女性たちはおしゃべりに夢中になっていた。

その中に入っていくのはなかなか勇気のいることだったが、市役所の方々が親切に僕を紹介してくれ、僕は、講師から一通りポールの使い方や、歩き方の講習を受け、今日初めて参加するという2人の年配の女性と共に初心者コースを歩くことになった。

歩くだけでしょ?簡単なことのように思えたが、実際にポールを使って歩いてみると、「右足が出た時に、左腕が前に出る。左足が出た時に、右腕が前に出る。」というごく自然な動きができなかった。意識すればするほど、右足と右腕、左足と左腕が同時に前に出た。もしかしたら、僕は普段からこんな歩き方をしているのか?喜劇だ。

講師は、歩きながら僕たちに、その公園の自然の成り立ち、それぞれの木が植えられた歴史であるとか、地形の歴史であるとか、四季折々に変わる景色の様子、もともとそこにあった学校の校舎の残骸から昔話を聞かせてくれもした。また、歩く時のコース取りのノウハウなども教えてくれた。それはとても楽しい時間だった。

自分の街を足で歩くことのなかった僕にとって、その1つ1つが発見だったし、確かにレベッカ・ソルニットの言う「歩くこと」は、「ある場所について自然的、または社会的成り立ちを理解する」ことにも通じた。

PODCAST「WALKS(さ迷う)」

8月、ずっと温めていた企画、歩いておしゃべりしてみるというPODCAST「WALKS(さ迷う)」をはじめた。

とにかく僕はオンラインで顔を突き合わせて話続けることに飽きていた。1つの議題を眼前に置いて、PC越しに顔を突き合わせて話し続けることに、とても窮屈さを感じていたし、とても疲れてもいた。

あれ?果たして面白いアイデアって、顔と顔を突き合わせて出てくるものなんだっけ?

そんな時に出会ったのが、レベッカ・ソルニット著『ウォークス 歩くことの精神史』だった。とても厚い本だし、難解で読みにくい部分も多いのだけど、「歩く」というごく自然の行為から、世界を語り直してみるという視点に心踊らされた。

読み進めているうちに、「歩く」と「考える」はセットじゃないかとも思えてきた。いや、もしかしたら「歩く」と「考える」は同義と言って良いかもしれないゾ。だとしたら、すっかり歩かなくなってしまった僕は、すっかり考えることもしていないわけだ。しかも長い間。

もしかしたら、誰かと一緒に「歩く」ことをしてみたら、誰かと一緒に「考える」ことにならない?ひとりで考えるより、ふたりで考えるほうが良さそうだし、それによって、レベッカ・ソルニットの言うところの、「歩く」ことによる「自己理解」はもちろん、「歩く」ことによる「他者理解」もできるかも?

そんな感じで、実際にやってみることにした。

やってみてわかること

現時点で、PODCAST「WALKS(さ迷う)」は6本配信している。それぞれ僕自身の課題はあるのだけれど、実際にやってみて気づいたことを挙げてみようと思う。

まず、一緒に歩くということは、一緒の方角を見ているっていうことだ。目的地はないけれども、不思議に一緒の方角を見ているという安心感がある。さらに、顔と顔を突き合わせなくても良い。これはかなり気持ちが楽だし、だからこそ、リラックスして話ができているような気がする。

一緒に歩くということは、リズムを合わせるってことなんじゃないかとも感じている。どちらかが早過ぎても、遅過ぎても一緒には歩けない。お互いに、お互いのリズムを自然に意識しておしゃべりしてくのが、とても心地よい。

歩いているわけだから、景色も変わる。車も通るし、人とすれ違ったりもする。突然に美しい景色が広がったりもする。それは予測できないことだし、それに気持ちを持っていかれるのは自然なことだし、それによって話が突然に変わっていくのも当然のことだろうと思う。その偶然性に心地よさを感じる。

さらに、その偶然性は、僕らが深く考え過ぎてしまうことからも救ってくれているように思う。なぜなら、歩いている僕らにとって、「たった今」、目の前に広がる美しさや、あるいは、危険の方が一大事なのだから。

だけど、僕と彼女は同じ方向を見ている。

僕は、ノルディックウォークの初心者コースで、80歳を過ぎる高齢の女性と一緒に歩いていた。女性はとてもゆっくり歩くので、僕もそれに合わせてゆっくりと歩いた。

女性は、ふと誰に向けられるでもなく、一度転んでから、すっかり歩けなくなってしまった数年間のことを話し始めた。そして、今、こうして皆と一緒におしゃべりしながら歩けることが、どれだけ幸せな気持ちかを教えてくれた。僕は、うん、うん、とうなずきながら歩いた。

僕は少し彼女のうしろを、彼女の歩くリズムに合わせて歩き続ける。僕は、話し続ける彼女の顔の表情はわからない。

だけど、僕と彼女は同じ方向を見ている。

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小山田和正
一般社団法人WORKSHOP VO 代表理事
元)東日本大震災津波遺児チャリティtovo 代表
法永寺(青森県五所川原市)住職
FMごしょがわら「心を調える(毎週月13:10)」