⑤ 農園から世界とつながるかもしれないエネルギー収支の話

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2022.10.7 更新

⑤ 農園から世界とつながるかもしれないエネルギー収支の話

赤石嘉寿貴

10月に入って朝晩の空気の冷たさを一段と感じるようになってきた。夏の虫達の鳴き声も聞こえなくなって、秋の虫達の出番だとばかりに季節のステージは第3幕へと入ってきたようだ。それでも日中の日差しはまだまだ強く、ちょっと動くと汗だくになる日が続いている。

畑には秋冬野菜の種まき、定植が進んでいる。ほうれん草、春菊、人参、ジャガイモ、白菜、紅菜苔、ニンニク、キャベツ、ブロッコリー、大根、カブ、小松菜。秋冬と書いておきながらキャベツは来年の2月ころ、ニンニクに至っては植えてから6ヶ月近くも畑に居座る。それだけの時間をかけてあの小ささ、半年もかけて吸収した栄養がたっぷりとあの小さなカラダの中に蓄えられているということだろうか。

夏野菜は終わりを迎えていよいよ畑には食べるものがなくなってきた。辛うじてピーマン、万願寺唐辛子、ナスは残っている。あとは保存用に取っておいたジャガイモや玉ねぎも残っている。野菜ではないけれど秋の味覚も残っていた。栗に銀杏、柿、とくに栗は野生の動物達との競争だといって一つ残らず採ってやるという感じでもなく昼間に落ちたものは人間が拾って、夜に落ちたものは鹿や猪が食べている。

人間も動物達も(人間も動物か)冬に向けてエネルギーを蓄えんと必死になって食べる。秋はそんな季節でもある。こちらでは雪が降らないので食物をさがそうと思えば歩きまわってなんとか食糧にもありつけるかもしれない、けれど雪が降る地域であればこの時期にたっぷりと食べて夏にダメージを受けたカラダを補修しつつ、冬を乗り越えられるだけの脂肪を付けたり、巣があるならそこに食物を蓄えたりとこれまた忙しい季節でもある。気温も低くなり、野菜の成長も鈍くなる。人間もこれでもかと高カロリーな栗を食べまくって脂肪を溜め込む、それでもエネルギーは不足していく、勤勉になってしまった人間は食糧が不足する冬でも働きっぱなしだ。そんな時期でも食べられるようにと保存食を作り出したり、時期外れの野菜を作り出す技術を高めてきた。

松沢さんは言う「農業はエネルギー獲得産業」だと。確かに食べるということはエネルギー欲しさが故にということだ。農作物を食べることは生きるためのこの体を維持するためのエネルギーを獲得することだ。体を温めて常に一定の温度に保つことで体の中の微生物たちにとって活動しやすい環境を維持しているのだろう。彼らに働いてもらわければ栄養を吸収できない。食べるとは彼らに餌をやっているのと同じようなものだと思う。

薪やガス、ガソリン、灯油などの石油製品なども何かを動かすためのエネルギーであり、動き続けるもの「生きているもの」-と言っていいのだろうか-は何らかのエネルギーを必要とする。しばらくはあるものを使ったりして動き続けることはできるけれど、何かをとり込まなければいずれ活動は止まってしまう。

そんなエネルギーをどこから得るのかというのはとても重要な問題になっているし、どうやって使うのか、それ以前にそこまでして使う必要があるのかということも考えたりしなければならないのかもしれない。

スーパーに行けば、先程あげたような野菜たちはいつでもある。洋服や工業製品ありとあらゆるものはどこかで作ってくれている人たちがいる。それは日本のどこかであることもあるし、世界のどこかの地域で作られたものでもある。自分の体を動かすためのエネルギーも欲しいし、心を満たしてくれるエネルギーも欲しい、人間は余計にエネルギーを必要とする。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない。
(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』)

そう人間は食べのもだけでは生きられない生物らしい。ときには食べることも娯楽の一部になり得るけれどきっと満腹中枢が刺激されてすぐに満足して、また違うバラが欲しくなる。

色んな物は遠くから来るほどにまたエネルギーを使う。

「エネルギーの収支」という言葉を松沢さんは使う。そのものを作るために使われたエネルギー、そして自分の手元に届くまでに使われたエネルギーの収支に気をつけながら農業をしたり、普段の生活を見つめ直すことを教えてくれる言葉だ。

一般的な農法で畑から野菜を作り出すことを考えてみると分かりやすいのだろうか。まずは畑を耕すために機械を使う。ここで機械を購入するお金もかかるし、それを動かすための石油エネルギーも必要となる。もちろん機械を作るときにもエネルギーを必要とする。さらに野菜を育てるためには肥料が必要になる。肥料はどこにあるのか?日本にはほとんどない。(化学肥料の原料は)中国、カナダ、マレーシアなどの日本国外に存在している。それをまた石油エネルギーを利用して持ってくる。

それだけでは野菜は育たない(と思っている)草に負けないように地温を上げるためにとビニールマルチを張ったり、より成長を促すためには雨にあたらないようにとビニールハウスを使ったり、さらに室温をコントロールするために石油エネルギーやそのほかのエネルギーを使う。

成長してきた野菜を虫や病気がない状態で市場に出さなければ買ってもらえない、もしくは買い叩かれる。消費者もそれを求めている。そうなれば、病害虫を排除するために農薬が必要になる。それもまた石油が使われる。

できた野菜は近くの消費地や遠くの消費地に運ばれていく、そのためには自動車やその他の運送手段が必要だ。またエネルギーが使われる。

と、エネルギー収支の視点で見ていくと一つの野菜が手元に届くまでに膨大なエネルギーが使われていることになる。しかもやっと運ばれてきたモノたちも利用されなければゴミとなって焼却されたり、埋め立てられたりする。処分することにさえエネルギーは使われる。

必要とされる量を超えたモノが生産されてただ捨てられていく。いつからなのか供給過多の時代続いてる。面積を広げろ、生産性を高めろ、キレイなものを作れ、それでいて安くしろ、色んな要求に答えるように大規模になっていく工業に農業、それとともに物質的エネルギー、人的エネルギーの使用も高まっていく。

エネルギーを消費することで生み出されるゴミや空気中に排出される様々なガスはこの地球上のものが元になっているのだから、地球規模の大きくて長い年月の循環でみたら元に戻っていくんだと思う。色んな生物が住める地球に戻っていきたいという生命体としての地球の意思が働いて、人間には耐えられない環境になってしまうことで人間が滅亡して存在していない可能性もある。

自分は悲観論者ではないと思っているけれど、今の状態を見ているとついついそんな方向に思考は流れていく。それは他の分野の知識が不足しているからなのか。それはどうなんだろう、知識や情報はある目的に向かって使われるのだから本当に人類が生き残りたいと思っているならすべての学問の答えはそこに向かうんじゃないだろうか。土がなければ食べるものさえ作り出せない、それを作っているのは微生物であり雑草を含めた植物達だ。肉を食べるためにはその餌が必要だ。やっぱり人類が作ることができない土が必要だ。

人類が生き残るということは目に見えない微生物から目に見える生物にまで気を配って生き続けるということが必要なのかもしれない。時には食ったり食われることがあるかもしれないし、食べ過ぎたり、資源を使いすぎたり、色んなやりすぎが起こることでバランスが崩れると自然の調節力によって何かしらの変化が起こって人類や他の生物達にとっても色んな弊害が生じる。

そんなエネルギーの浪費-節電という小さな視点ではなくもっと大きな視点-をマイナスではなくなるべくゼロに近くするための行動の一つがここ福津農園での農業のやり方であり販売の仕方である。

ここでは野菜を作る時は耕さないので耕耘機を使わないが田んぼだけは例外で田植えをする前に一度だけ耕す。耕耘機の出番としては年に一回だけだ。毎日ではないけれど刈払機、ハンマーナイフも使う。野菜の栽培に関してはほぼ手作業で備中鍬や鎌、草掻きを利用している。もちろん化学肥料や農薬、ビニールマルチは使わない。ビニールハウスもない。

これだけみても、エネルギー収支の視点で見た場合のエネルギーの使用率というの一般的な農業よりかなり低い。

さらには収穫したものは毎週一回の朝市での販売と数件あるお客さんへの配達でほとんどを売り切るというスタイルだ。朝市の場所は自宅から40分、配達先もその周辺に限られている。県外へ発送したりはしていない。地域に根ざした農業をすることも目的であり、そうして県外へ運び出すためのエネルギーを使わずにすむ。

自分たちが食べるものを作って余剰分を販売するという小さな農業をしている。食べるものを自分たちで生産して、それを食べる。食べたものは排泄され発酵を経て肥料になる。余った野菜くずは鶏の餌、または畑に戻して堆肥となる。そしてまた作物が育つ、こうしてエネルギーの循環が小さな農園の中で起こっている。外部から何かを大量に持ち込んで持ち出すということを控えて、農園の中のエネルギーの収支はプラスマイナスゼロに近づいていく。

福津農園スタイルの小さな農業は収量をあげることには向いていないかもしれない、現金収入を担っているのは鶏の卵であるというのも研修しながら見えてくる現実である。少ない野菜では必要とされる需要に答えることはできないからこそ朝市という小さな農業者が集まった組織が必要だ。そんな農業をする人が増えれば地域の食糧を地域でまかなうということも可能になってくるかもしれない。

遠く外国から送られてくるものもそれを売ることで貨幣という対価を得ることが目標で最終的には一部は食べるものを買うという目的を達成するためのお金になる。大げさにいうと自国の大地や大気を削り取り、汚染しながらお金に替えていく作業をしているようなものだ。そうしてたくさんのエネルギーをかけてお金を生成している。最終的には自国で調達できたかもしれないもの、それで足りていたかもしれないものまでも、なぜか「貨幣」というものを通過しなければ手に入れられない。お金は何とでも交換できるすごいものだとは思うけれど、モノが手に入らず希少なものとなった時それを売ってもらえなければそのモノさえ買うことのできない無用の長物になってしまう。

富める土地とそうではない土地があるのも事実で、なんの因果かたまたまそこに生まれてしまった。それを世界とどういう風に分け合っていくのか、どう分け合ったらいいのかとか様々な問題があるということも想像できるし、その想像をも超える問題が山のようにあることも事実だろう。

と、エネルギーの収支を考えていくといつの間にか農園から世界に飛び出てしまった。

飛躍し過ぎか?

そんな風にエネルギーは色んなものと繋がりをもっていて、「お金の収支」ではない視点で世界を見てみることで新たな世界に目を開くことができるのかもしれない。小さなエネルギーの循環を作り出すこと、それが隣の家、地域、社会と小さな循環の輪が重なっている状態になっていくことで地球のように丸くおさまってエネルギーの収支は限りなくゼロに近づいていくのかもしれない。

最初から無理やり大きな循環の輪を作らずとも、小さな輪の方が強靭で取っ掛かりが簡単だ。

また、エネルギー収支の面では優れていても、紹介したこの農園のようなスタイルがすべての問題を解決できるわけではないということも見えてくる。有機農産物を買える人と色んな理由があって買えない人、そっちを選びたいけれど今は手が出ない人もいるし、現在の農家数ではたくさんの人たちの需要に答えることができない。現在は農業をする人が圧倒的に少なく、今、農作物を作っている人達が同じようなスタイルになってしまったら日本国民は飢えてしまう。

松沢さんが言うように農作物は「安心・安全が原則」という言葉を借りればあえて「農薬・化学肥料不使用」という言葉や「有機」という言葉を使わずともいいわけで、ラベリングすること、カギ括弧でくくってしまうことはそこから漏れていってしまう人も作り出してしまうことにもつながっているように思う。

考え出すと解決しなければならない問題は大小ゴロゴロと転がっている。優れたものにも影はあり、それを直視しつつどうやってそれを補っていくのか、もしくは影をどうやって上手く利用するのか、足りないものを近くで補えないのか、補えないとしても循環させることはできないのか。太陽の周りを周りながら自転と公転をする地球のようにゴロゴロと自分の視点を転がしながら時には目が回りそうになるけれど、色んな部分に日を当てることで日陰を日向に、日向を日陰にしていくように様々なものに光をあてられるように、そしてその光を受けていろんな場所で成長していく植物のように心を思考を成長させて生きたいものだ。

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赤石嘉寿貴
生まれは大阪、育ちは青森。自衛隊に始まり、様々な仕事を経験し、介護の仕事を経て趣味のキューバンサルサ上達のためキューバへ渡る。帰国しサルサインストラクターとして活動を始める。コロナ禍や家族の死をきっかけに「生きる」を改めて考えさせられ、現在は愛知県新城市の福津農園の松沢さんのもとで農業を勉強中。 Casa Akaishi(BLOG)