① 世界は分からないことでいっぱいだ

2022.6.11 更新

小山田和正

初回ではありますが、今回の「ちゃんとしたかったのにできなかった」は、ちょっとサボらせて頂いて、河北新報「座標」に連載させて頂いていた原稿から、先日、2022年6月11日発行のものを転載(校正前の元原稿になります)させて頂きます。許可を得て掲載しております。ちょうど、「分からなさ」について書いた原稿でした。「分からなさ」は僕の最近の興味なのかもしれません。

世界は分からないことでいっぱいだ。

2年前、僕たちは新しいウイルスの登場に戸惑い、何をどうすべきか分からないまま、手探りでいろんなことが進んでいった。今、ちょうどその頃に逝去された方々の3回忌に当たり、当時、葬儀参列が叶わなかった県外在住のご家族ご親戚が集まって執り行われることが多くなった。

先日、せめて納骨だけは県外に住む家族親戚が一同に揃って行いたいと願い、コロナ禍の2年間、その時を待ち続けていた方の3回忌の法事と納骨をご自宅で執り行った。法事の後、墓前にて納骨の読経をしていると、制服を着た小学生の男の子がボロボロ涙を落として泣いていた。2年前に亡くなったお爺ちゃんに、よほど愛された子なのだろう。そう思った。

ご自宅に戻り、僕が衣を着替えていると、その子が近くに寄ってきて正座をした。そして、少し遠慮がちに「死んだら僕はどこにいくの?」と尋ねた。「え?」突然のことで怯みながらも平静を装い「着替えが終わってから、ちゃんと話をしよう」と答えた。彼の母が「この子、去年、大きな手術をしてから、ずっとこんな感じなんです。」と教えてくれた。

僕は彼と向かい合い「どうして、死んだらどこにいくのか気になりだしたの?」と尋ねた。彼は少し考え、結局、言葉にならないまま黙り込んでしまった。彼にとって答え難い問いだったのかもしれない。僕の津軽弁が聞き取れなかったのかもしれない。それを横目に見ていた彼の祖母が「あんたはすぐに良くなるから、そんなこと考えなくていい!」と言って笑った。この話は終わり、僕はこれで良かったのだろうかと僕の姿勢を自省し、モヤモヤと落ち着かないまま帰路についた。

「僕は死んだらどこにいくの?」子どもから真正面に尋ねられる時、僕たち大人はどんな返答をするのだろう。驚いて戸惑い、ちょっと考えて「お星さまになる」などと、それっぽい返答でその場をうまくやり過ごすのかもしれない。でも、きっと子どもも、答えた僕でさえモヤモヤを抱えたまま、そして、そのモヤモヤにいつか蓋がされる時をじっと待つのだろう。

子どもからの問いに、僕はなぜ戸惑い、怯んでしまうのだろう。きっと、その問いの前で、僕は大人でもお坊さんでもいられないからだ。様々なことを学び、経験し、生活を重ね、知識や知恵を持ち、その自負がある。しかし、僕はその問いの前で丸裸になる。僕の戸惑いは、子どもの前で身ぐるみ剥がされる怖さだろう。実は僕もよく分からないと認めさせられる不安だろう。

見渡せば、僕たちのまわりには分からないことだらけだ。「なんで僕は生まれたの?」「なんで僕は老いるの?」「なんで僕は病気になるの?」「なんで僕は死ぬの?」。裸の問いに、分からないを認めて裸で向き合う時、僕ははじめて性別や人種、国籍や年齢、性的指向や障害の有無を超え、彼と同じ場所に立つ。そして、分からなさを抱きしめて、その問いに向かって一緒に歩こう。世界は分からないことでいっぱいだ。(終)

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小山田和正
一般社団法人WORKSHOP VO 代表理事
元)東日本大震災津波遺児チャリティtovo 代表
法永寺(青森県五所川原市)住職
FMごしょがわら「心を調える(毎週月13:10)」