⑨ 在ることと無いこと

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2025.4.26 更新

⑨ 在ることと無いこと

髙橋厚史

これは弘前大学で行われている「対話の森」というグループから配信されている『対話の森から』というニュースレターのために書いた文章です。

「リ・スタート」というテーマを頂いて書いたものだったのですが、なんとなくうまく言葉にできないでいた「無いということが在る」ということについて、一つ形になったかなと思い、こちらにも載せることにしました。

以下本文です。

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今年の春、『アンメット』というドラマを見ました。事故の影響で、記憶が一日しかもたなくなってしまった脳外科医が主人公です。彼女は、事故に遭う前の二年間の記憶も失っています。だから彼女は、毎日日記を書きます。今日を明日につなげるために。その明日に、今日いた自分がいないとわかっていても。そうやって彼女は、病院という場で、医者として、もう二度とそれまでと同じ明日がやって来ない患者たちに向き合い続けます。

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りんご農家になって五年目になりました。その前は大学院に通って文学研究をしていました。その前は地元の農協で事務の仕事をしていました。その前が大学生でした。卒業の時、農協を二年で辞めるとは、大学院を中退するとは、りんご畑で迎える春が五回目になるとは、思っていませんでした。

その時々で、将来について考えていたことは違いました。大学に入った頃は、国際関係の仕事に就きたいと考えていました。大学を卒業した頃は、誰かの居場所となる場を作りたいと考えていました。大学院に入った頃は、書く仕事がしたいと考えていました。大学院を中退した頃は、これからどうしようと、りんごの木を前に途方に暮れました。

五回目の春のりんご畑で剪定をしながら思ったのは、その人生が思い通りではなかったとしても、つながっている何かが必ず含まれているということです。

りんごの木の枝を切ると、切った枝があったところに空間が生まれます。そこには、新しい風が吹き込み、新しい光が差し込み、残った枝を育みます。育まれた枝の樹皮の下では、新しい花芽が形成されます。それはいつか芽吹きます。切られた枝だけ見ると、それで終わりのようにも見えますが、その枝が切られたことによる影響は、りんごの木の中で続いています。

そこにある、ということだけが、すべてではないのだと思います。そこにない、ということもまた、何かを育んでいる、ということが、私たちの身の回りや、私たち自身の中でも、起こっているのだと思います。

僕は今、りんご農家です。それは、まったく思い描いたことのない未来でした。それは、かつての僕が思い描いていた未来に、今の僕はたどり着けなかった、ということでもあります。

それらは、至らなかった自分の手によって切断した未来でもあるでしょう。自分の手が及ばない出来事によって切断された未来でもあるでしょう。自分の一部、自分そのものに等しいものが失われた苦しみ、悲しみが、そこにはあります。

そして、そうした喪失の悲嘆に触れた瞬間、すでにもう私たちは、何かを再び始めているのだと思います。再び始まった何かの中に、私たちはいるのだと思います。
もうやってこない未来を思い描いて生きていたあの頃の記憶。もう二度といっしょにいることは叶わない人たちの記憶。喪失の記憶。欠如であり余白でもある空白。その切断の痕で、養われているかもしれない何かの芽吹きを待つこと。

そういう、途方に暮れてしまう時間に身を置くことが、今思うと、自分のリ・スタートの場面に何度もあったように思います。

その繰り返し、その都度少しずつ違うその繰り返しが、今の僕を作っています。

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『アンメット』の主人公、記憶障害を持つ脳外科医の彼女は、新しく赴任してきた同じ脳外科医の同僚から「強い感情は記憶になくても残っている」と言われます。

ある日、自分が担当する言語障害を患った女優が再起しようとしている姿を見て、彼女は涙を流します。もちろん彼女に記憶はありません。それを見た、同じ同僚の彼から「繋がりましたね、川内先生の今日が明日に」と言われます。

その夜、日記と向き合った彼女は、いつかの自分が書いた「わたしには今日しかない」という言葉に、線を引きます。そして、「わたしの今日は明日に繋がる」と、書き直します。

それは彼女が、そこに自分がいないとしても、自分のこれまでと、これからは、どこかで、だれかによって、つながっているんだと信じられた、初めての瞬間でした。

年老いた大きなりんごの木を前にした時、僕も強く感じます。

無数のだれかの昨日や今日、明日が、りんごの木の前にいる僕の今を作っていること。その僕の、昨日や今日、明日もまた、無数のだれかの今を作っているのだろう、ということ。

あなたの今は、つながっています。
そしてリ・スタートは、あなたを待っています。
いつでも、どんなところであっても。

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髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun
・読み書き聞く人(office SOBORO

office SOBORO(note)

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