⑧ 雪かきと捻挫

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2025.2.6 更新

⑧ 雪かきと捻挫

髙橋厚史

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2024年の年末、右足首をくじいた。小さな忘年会があり、おいしいご飯、おいしいお酒、だらだら続くおしゃべりにすっかり気持ちよくなり酔っ払い、帰り道でお約束のようにちゃんと転んだ。
翌朝、呆れ果てた妻に病院まで送ってもらい、診察室では先生に笑われ、レントゲン室では放射線技師のお兄さんになぐさめられ、近くの薬局に足を引きずって向かっていたら駐車場の雪かきをしていた看護師さんに深く同情された。そうやっていろいろな人たちの人情にふれていると不思議なもので、腹の底で淀んでいた自己嫌悪も少しずつ薄まっていき、家に帰る頃には、前向きに生きていけそうなくらいにはなっていた。

この時はまだ、災害級と盛んに言われるようになる豪雪の渦中に自分たちがいるとは思いもしていなかったし、今年はやけに降るな、これが津軽か、くらいに思っていた。本当に申し訳ないけど、捻挫した右足首から鋭い痛みが引くまでは、雪かきは妻にお願いするしかないと思っていた。
でも雪は降り続き、連日の雪かきの疲れが根雪のように妻の顔を覆いはじめていた。幸い、終始刺すようだった足首の痛みも思っていたより早くやわらぎ、おれもゆっくりであれば雪かきができるようになった。
それから年末年始はずっと雪かきをしていたような気がする。へたに雪かきできない屋根雪が、どんどん高くなり、寝室の窓が雪で塞がっていたことに気づいた時に初めて、これは尋常ではないなと思った。その尋常のなさは、その後も数日間降り続いた雪で上塗りされさらに分厚くなった。

おれと妻にとって初めてだったこの積雪は、お向かいの家に住む方にとっても初めてのことだったらしい。自分がここに来てからこんなに降ったのは初めてだと言っていた。
毎朝顔を合わせると、年末年始からこの雪は堪えるね、もういいかげんにしてほしいねと話し合って、その度に、自分たちだけではないのだと、ぼんやり漂う連帯感に力をもらいながら雪を片付けた。
ある時にその方が、雪が山になっていたら何かあった時に救急車が入れなくて困るでしょと冗談っぽく言ったことがあって、そうだよなと思った。考えたこともなかった。何かあった時はよろしくねとも言われ、うれしくもあり寂しくもあった。

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そのうち、降雪の手も若干ゆるみ、太陽の光が地表に射す頻度も増えてきた。自治体の本腰を入れた排除雪によって公道も広くなって平らになり、身の危険を感じながら車を運転することも減った。

それでも雪は、公のものとされていないそこかしこに小さな山や壁として残る。それらは人の手によって徐々に片付けられていく。片付けられた跡に残る空白は、そこがだれかにとっての生活圏であることを示している。一月とは思えない陽光と暖気に助けられ、人の手による除排雪が進むと、そういう生活圏の気配と入れ替わるように、手つかずで残っている雪の山が存在感を増してくる。
歩行者や車の進行を阻むように道に迫り出している雪の壁の奥には、夜になっても明かりのない家や営業していない店舗、人の用から外れ、だれの生活圏からも取り残された物件がひっそり佇んでいる。それらは、屋根に積もった分厚い雪で今にも崩れそうになっているのに、交通事故の火種としてくすぶり続けているのに、誰も手出しできず、手出ししない。

青森県をはじめとした自治体が対策本部を立ち上げ、それに倣ったメディアの情報発信により、今回の豪雪が災害級に相当するものだということが県民市民に認知された。除排雪の速度はそれ以前とそれ以後では格段に違う。
それでも除排雪の対象から外れている、外されてしまっている、豪雪の痕を手厚く保存している雪に閉ざされた物件から、雪解け水と共に顔のない私有が滲み出ている。
それは、冬のものとは思えない眩しい陽光によって乾いたアスファルトにも浸みだし、黒い溜まりを作っていた。

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そして今は、この冬最強の寒波が日本上空に居座っているという。捻挫した右足首もだいぶ回復した。日常生活にほとんど支障はない。雪かきもがつがつやっている。けれども、階段を降りたり、足場の悪いところを歩くと、鈍く痛む時がまだある。

今年は始まりから、なんだか自分がままならない日々を過ごしているような気がする。雪かきに追われ、気づけば他のやらなければならないことが手つかずで一日が終わっていたし、捻挫した右足首を庇いながらの生活は気が散って仕方なかった。それでも日中をなんとか乗り過ごし、ようやく辿り着いた夜の時間も、ただ寝て、ぼーっとしているだけの時間になっていた。

ぼーっとしながらも、漠然と未来のことを考えた。このままでいいんだっけと考えた。今はとりあえず体も動くし頭も働いているようだけど、気づいたら、たくさんの時間が流れてしまっていて、見て見ぬふりをし続けてきた雪の山で身動きがとれなくなってしまうんじゃないかと考えた。このまま降り続ける雪を、積もるままにしていて、いいんだっけと考えた。考え、でもいつものように、それは具体的ななにかにつながっていくこともなく、灰色の時間が積み重なっていく。

でもたぶん、今までのような仕方ではない仕方で、あらゆる関係に対面しないといけない気はしている。世界や他者との間に新しい接触点を探らないことには、自分はずっとこのままなのだろうという気がしている。捻挫した右足首のリハビリのように、世界や他者との間の傷ついた靱帯を回復を待ちながら、凝り固まった周辺の筋肉や関節をほぐさないことには、新しい接触点を感じる自分にもなっていけない。雪かきもままならない。

それはたぶん、雪かきはなにも生まないと思ってきた自分の感性の掘り崩しにもつながっていく。この「雪かき」は比喩的に使っている。そして「捻挫」も。比喩だとしても、比喩だからこそ、その二つの言葉が、これからやってくる現実に巻き込まれながらも、方向感覚を失わないために必要だと予感している。

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髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun
・読み書き聞く人(office SOBORO

office SOBORO(note)

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