⑥ 落ち実と私
HOME ‣ 連載 | あいだに漂う ‣ ⑥ 落ち実と私 (2024.11.12)
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畑を歩くと落ちたりんごがある。落ちたりんごには土壌の菌がついているから、出荷できないことになっている。だから、目立った傷のないものは拾って水で洗い、ジュースにしてもらう。そうでないものは、分解が進むように足で潰す。
あとで拾うつもりでいても、落ちたりんごは、いつの間にか腐っていて、そういうりんごを今年もたくさん足で潰している。あっけなく押し潰れていくものがあれば、足裏に硬さを残して潰れていくものもある。
収穫する手が掴み損ねて落ちたりんごを、気づいたら、踏みつけている自分もいる。一度では潰しきれないから、二度、三度、踏みつけている。鳥が大きく食べたような跡があるわけでもない。枝にぶらさがりながら半分腐っているわけでもない。市場に出荷できなくても、水で洗えばふつうに食べられるそんなりんごを、踏みつけ潰している時がある。
もったいないと思う間はもうなく、粉々に砕けたクリーム色の果肉から視線を外し、次のりんごに手を伸ばしている。その手つきの静けさと、落ちた無傷のりんごを踏み潰しにいく足の容赦のなさがすれ違う一点をずっと、自分の中に探している。
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前回、収穫したりんごを選果する基準について書きながら、先月のおれは「見た目がいい美味しくないりんご」のところまで来て、「そういうりんごにお金を払い、人は何を買っているのか」という問いを、今月のおれに残していた。
畑に向かう道を、出荷に向かう道を、家に帰る道を、軽トラでとろとろ走りながら、10月が終わり11月に入っても考えていた。布団に入っても、しばらく手先足先が冷たい季節になっていた。夜空を渡っていく白鳥の薄い声が眠りかけの意識をかすかに揺らす時期が来ていた。
結局、大したことはわからず、それでもひとつだけ言えそうなのは、その問いを発した自分が、人よりもおいしいりんごを食べられる場所に近いということを、おれはすっかり忘れていた、ということだった。おれはただ、りんごがおいしいところの近くにいただけだった。そんな自分が「見た目がいい美味しくないりんご」と書いたり、「そういうりんごにお金を払い、人は何を買っているのか」と問うのは、ずいぶん乱暴だったと思った。そう思うと、自分でもその問いやその視点への興味を失った。
それよりも「おいしいは正義か?」と考え始める方が、まだ遠くに行けそうだと思った。
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小さい頃からりんごは食べていた。変色しないように母が塩水にさらしていたから、家で食べるりんごは甘塩っぱかった。口にしているりんごの品種も知らず食べていた。りんごが食べたいとねだったことはなかったけど、テーブルの上にりんごがあれば食べていた。でも、特別おいしいと思ったことはなく、りんごはりんごの味がするものだった。
実家で食べていたりんごが、ふじという品種だとちゃんと知ったのは、りんごの栽培に関わるようになってからだった。枝からもいでそのままに口にしたふじのりんごはとてもおいしかった。おいしいのに、その味は、自分がずっと持っていたりんごの味の記憶をなぞるおいしさだった。りんご畑を持って二年目の秋だった。
四年目になっても状況は二年目とさほど変わっていない。季節の進行とりんごの木に追い立てられるように、その時々の決まった作業をじたばたこなしていく。でも十分こなせている気はしないし間に合っていない。そうこうしている内に、気づけば、りんごは収穫できるようになっていて、もいで食べるとふつうにおいしい。うれしいことに、他の人もおいしいと言ってくれる。
でも、そのおいしさのどこに自分が関わっているのか、自分でもよくわからない。登記上は、自分たちのものになっているりんご畑で、草の上に落ちていたりんごを拾って食べて、うまいりんごだ、と思う。その思い方が他人事に接した時のようで、途方に暮れることがある。だれが作ったりんごを、おれはいま、食べているんだろう、と思う時があると言ったら、笑われたり、それとも怒られたり、するんだろうか。
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前回まるで、市場に出ているりんごは見た目だけよくておいしくない、みたいな書き方をしてしまったけど、きっとそんなことはなく、おいしくて見た目もいいりんごもあるはずだ。同じように、見た目は悪いけど味は悪くない、むしろおいしい、という売り方をされているりんごにも、おいしくないし見た目も悪いりんごがあってもいいはずで、収穫したりんごの中には実際そういうものがある。
ところで、上に書いた文章はあくまで「おれ」にあるりんごのイメージがベースになっている。だからおれが「見た目だけよくておいしくない」と言ったりんごは、だれかにとっては「おいしくて見た目もいい」りんごであってもいいわけだし、「おいしくないし見た目も悪い」とおれが言ったりんごを、「見た目もいいしおいしい」と言うだれかがいたっていいはずだし、実際いる。
もっと言うと、見た目や味の良し悪しとはちがう仕方で、りんごを判断するだれかがいても、なにもおかしくはない。
今、肌感覚でしかないけど、りんごについても「見た目」で選ぶのではなく「味」で選んでいこう、という流れを強めていこうとする動きが、個人レベルを越えたところで、目立つようになってきているような気がしている。それは、けして悪いことではないし、その流れが大きくなっていくことは、りんごの産地としての青森の産業寿命を延ばしていくだろうし、青森のりんごのおいしさを、たくさんの人に味わってもらえるようになるのは、生産者の端くれとしてとてもうれしく思う。
でも今、存在感を増してきているその流れに、「うまけりゃなんでもいいっしょ」という感じの腰の軽さ、節操のなさが透けて見えるようで、嫌だなと思ってしまう。それは身に覚えのある感じで、ちょっと前の自分のなかにも、そういう気分はあったからなおさら、それはちがうだろ、と思ってしまう。
でも、なにがどうちがうのか。おいしいは正義でもないし免罪符でもない、という言葉だけが手元にある。それ以上の言葉がなく、それがだれに向けた、なにに向けた、それはちがうだろ、という惨めな叫びなのか、わからなくて、またおれは途方に暮れる。
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ある時期、アフリカ人の男の人が、うちのりんご畑で手伝いをしてくれたことがあった。彼は日本語を勉強しに来ていたのに、勉強する気がないんじゃないかと思うくらい、日本語が話せなくて、でも彼自身はべつに、特別困っているような感じでもなかった。
早生のりんごが獲れる時期だったから、彼には収穫を手伝ってもらった。彼が力いっぱいりんごをもぐから、薄い皮に包まれたりんごに指の跡がついて、そういう「押せ」のあるりんごは市場に出荷できないことになっているから(そこから腐敗が始まってしまうから)、そういうりんごは加工用の木箱に入れた。片言の英語でも翻訳アプリでも伝えることはできたはずなのに、一生懸命りんごをもいでくれているから、なんとなく言えなかった。
うちでいっしょに晩ごはんも食べた。いつもどおりふつうに作ったカレーを、うまいうまいと彼は食べてくれて、真剣にレシピを訊いてきた。その時はたしか、ゴールデンカレーのルーと余っていたバーモンドカレーのルーを混ぜたカレーだったので、レシピというレシピもなく、ゴールデンカレーが最高だぜ、と適当に答えた。それを彼は真剣にメモをしていた。
軽トラの助手席で、彼はりんごを食べていた。たしか落ち実の黄色いりんごだったと思う。あんなにきれいに食べてもらったりんごを、人生で初めて見た。本当に絵に書いたような細いりんごの軸しか残っていなかった。助手席の窓を開け、食べ尽くされて鳥の骨のようになったりんごを彼は捨てた。捨てちゃだめだよと言いたくなったけど、やっぱりおれは言えなかった。べつにいいかと思っている自分もいた。
手伝いに来てもらった初日、落ちた実は出荷できないから拾わないで、と伝えると、彼は驚いていた。「なんで、食べられるだろ?」みたいなことを言われた記憶がある。でも、お金にならないから、と身も蓋もないことを言えるわけもなく、今もたぶん、だれかに同じことを言われたら、お金にならないからだよ、とは言えず、もったいないよねと、神妙な顔つきでお茶を濁すと思う。
おれがお茶を濁すのは、落ち実がお金にならないことについて真剣に考え始めると、「私」というものについてそのうち、考えざるを得なくなってくるからだと思う。
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先日収録したPODCAST「石を置く#006」で小山田さんから聞いた「one world-world」の話が、近頃ボディブローみたく効いてきている。
イッツ・ア・スモールワールド、世界は一つ、みんなおんなじ、の観念にひそむ暴力性。
りんごの規格にも、そういうところがあって、選果しながらだんだん何かがすり減っていくような気がするのは、その暴力性によるものなんだろうか。
規格外のりんごを、おいしいのにもったいない、という文脈で、積めるだけ付加価値を積み上げて加工した商品が、法外な値段で売られているのを見て、嫌なものを見てしまった気持ちになるのもまた、その暴力性によるものなんだろうか。
その暴力性が、おれを通じて、無傷の落ち実を、足で潰すのだろうか。
でも、その暴力性はたぶん、おれを通じて、枝にぶらさがるりんごを、静かな手つきで、収穫するのだろう。
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これ以上は先に行けない。体力も気力もない。ここが今の限界。
この細切れの断片が、いつか意味となってくれますように。
明日も収穫なので、寝ます。
おやすみなさい。
髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun)
・読み書き聞く人(office SOBORO)