④ 幸福と反復

HOME連載 | あいだに漂う ‣ ④ 幸福と反復 (2024.9.8)

tag : #あいだに漂う

2024.9.8 更新

④ 幸福と反復

髙橋厚史

/

小学6年生の頃、当時テレビで放送していたドラマの影響で、毎日のように野球の軟式ボールを壁に向かって投げていた時期があった。

飽きもせずボールを壁に向かって投げていた。本当によく飽きずに続けていたなと思うくらい、その時期は壁に向かってボールを投げて、跳ね返ってきたボールをくたびれたグラブで捕って、捕ったボールを薄汚れた壁に向かって投げ返していた。

壁は、大きな橋の柱だった。ボールを投げて捕ったりしているおれの上で、たくさんの車が走り、人が歩いていた。近くで川が流れていた。捕り損なったボールがたまに川に落ちて流された。川の向こうには街があった。まだひとりで行ってはいけないと言われていた街があった。その大きな橋を渡ると、その先に街はあった。でもおれは街に行こうとは思わなかった。それよりも、壁に向かってボールを投げていた方がよかった。

気がつくと、日は暮れ、薄暗かった。白いボールがまだ見えるから、ボールを投げ続けた。指先からはなれたボールはよく回転し、壁に当たって跳ね返るまで、気持ちのいい音を響かせて空気を切り裂いた。薄暗いと、その音はいっそうよく聞こえた。その音をもう一度聞きたくて、ボールを投げた。捕って、投げた。投げた。

ごくまれに、母か、父が、気づくとそこにいた記憶がある。そろそろ終わりにするようにと促され、いっしょに家に帰った。

家から歩いて五分くらいのところにその壁はあった。家に帰るのにも時間はかからなかった。坂道を登り切って、堤防に上がると、夜を迎える手前の空に、薄い月が浮かんでいるのが見えた。大きな橋の街灯の列が光を灯し、街に向かって伸びていた。遠くに山が見えた。その頂きで夕日が沈みかけていた。

当時、ボールを何度も壁に向かって投げた帰り道、どんな気持ちだったのか、なにを考えていたのか、自分のことなのによく思い出せない。べつにたいそうな子どもではなかったから、抱いていたかもしれない気持ちも考えも、べつにたいそうなことではなかったはずだ。でもなんとなく、当時のことを思い出しながら書いている今の自分の中で、今の自分では満たし得ない何かが、満たされていくような感じがした。

その感覚、それによって自分は満たされた、それは自分を満たした、そういうものをおれは今、幸福と呼びたがっている。

//

4月から1つの本をずっと読んでいる。

1周すると、前に読んだところは忘れているので、また最初から読み直す。また1周しても、同じように前に読んだところは忘れているので、また最初から読み直す。読み直すと言っても、ずいぶん長くて入り組んだ本なので、一からまた読み始めても、同じ本を読んでいるとはあまり思えず、ページをめくるたびに新鮮な驚きがあり、眠気を誘う退屈に襲われる。

他にも本はある。その中にはまだ読んでいない本もある。4月以降、ずいぶん本を減らした。いつか読むだろうと思ってずっと置いていた本だった。それはいつになっても読まれることがなかったので手放した。またきっと読みたくなるだろうと思って大切にしまっていた本もあった。それもいつ読みたくなるのかわからなかったので手放した。そうして手元に残った本の中には、まだ読んでいない本があるにも関わらず、おれは同じ1つの本を4月からずっと読んでいる。

その本を読んでいる時、おれが感じているのもまた幸福かもしれない。壁に向かって延々とボールを投げていた記憶の感触と重なってくる。やっていることはぜんぜん違う。でも二つの営みは、反復という点で一致する。ボールを投げることとページをめくること。それらは反復という点において重なり、その点は、幸福と近いところにある。

とは言っても、それは幸福ではないかもしれない。その満たされていく感じを言うのに、幸福、という言葉しか、おれは知らないだけのことかもしれない。満たされていかない感じを幸福と言ってみたっていいわけだし、何より幸福は人それぞれにそれぞれの方角からやってくるのだから、幸福の本質を言語化することは、それこそそれを言語化しようとしている時点で幸福の本質に反し、幸福の価値を損ねているとも思える。

そう、べつに、幸福についてああだこうだ言うことそれ自体は幸福ではない。同じように、不幸についてああだこうだ言うことそれ自体は不幸ではない。言っているうちに、言われているうちに、ああ幸福かも、とか、ああ不幸かも、という気持ちになったりすることもあるけど、それは気持ちであって、その気持ちの在りようはイコールで幸福や不幸とつながっているわけではない。

つながってはいないけど、無関係ではないので、ここまで考え書いてみたものの、実際のおれは、ある気持ちになると自分は幸福だ不幸だと忙しなく感じるし、そうやってどたばたやってるうちに無数の幸福や不幸、気持ちを見逃してきた。

見逃してきた、なんて言い方せずともいいじゃないか、その時々の幸福や不幸、気持ちはそれ以上でも以下でもなく、それがそれですべてなんだ、と言われれば、わかるけど、わからないとこもあるので、もう少し粘ってみる。

///

先日、お昼ご飯を食べたあと、地面に段ボールを敷いて寝っ転がった。畑で寝っ転がるのは久しぶりのことだった。

真上にあった空はほんとうに青く、見ているだけで気持ちがよくて、いろんなかたちの雲を見ているのは、それだけでたのしかった。

でも急に、昔の出来事とともに、怒りや悲しみ、後悔がやってきて、なんとなく泣きそうになったり、胸の奥が小刻みにふるえた。

それでも空は青く、いろんなかたちの雲が、絡み合ったりほどけたりしながら、刻々とかたちを変えて、真っ青な空の奥に消えていった。

泣きそうになっていたおれは、どこかに行ってしまったようで、言葉にできない何かに満たされているおれがいた。

結局、昼寝もせずにずっと、空を見上げていた。

壁に向かって延々ボール投げ続けたおれ。1つの本を延々と読んでいるおれ。寝っ転がって空を見上げるおれ。

そこにはだれもいない。だれも同席していない。あいだを埋めるものはだれもいない。だれもいないなにもない、でもたしかにそこにはあいだがあるんだということを確かめ、あるいは確かめ損なって、そのあいだにふれたいがためだけに、おれは、壁に向かって延々ボールを投げ続け、1つの本を延々と読み、空を見上げ続けたのかもしれない。

そして、書くということも、おれにとっては、そのあいだに向かうひとつの営みなのだと思う。書いている時のおれには、あの幸福と言ってもいいのかわからない反復の幸福の感触が、たしかにやってきている時があるから。

そのあいだには、すべてがない。
と同時に、すべてがある。

終わらない反復の方へ。

髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun
・読み書き聞く人(office SOBORO

office SOBORO(note)

Support our projects