③テントウムシと日常

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2024.8.7 更新

③ テントウムシと日常

髙橋厚史

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溶けそうになりながら汗だくでりんごの摘果をしていたら、緑の葉っぱに、奇妙なかたちをした何かが、へばりついていた。

テントウムシの幼虫だった。でも足はなく、指先でつついても、まったく動かなかった。成虫になろうとしているのかもしれないと思った。

妻を呼んで見せると、苦虫を嚙みつぶした顔をした。どうもかたちが気に食わないのだという。気持ちはわからないでもない。どうしてこんな奇妙なかたちにならないと、成虫になれないのだろうか。

摘果をしながら、その日の作業を終えて家でシャワーを浴びながら、晩ごはんを食べながら、布団に寝そべってうだうだしながら、ふとした拍子に、幼虫から成虫になろうとしているテントウムシの、その奇妙なかたちを、思い出した。

相変わらず摘果をしながら、時おりテントウムシと出会う。

彼らは、プロにお願いして隅々までデザインしてもらったような、整った模様の丸い背中を背負ってアブラムシを食べているし、指先に留まったかと思えば、気に入らなかったようで、青い空に向かって羽ばたいていく。

その姿を目で追いかけ、また季節の針がひとつ進んだと思いつつ、でも、腑に落ちないところもあった。

あの、奇妙なかたちは、どこに行ってしまったんだろう。

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日常、というのもなんだか不思議な言葉だ、と思っている。

暮らしや生活と、同義の言葉なんだろうか。いや、重なるところはありつつも、それらとはどうも違う、とも思う。

おれは「暮らし」ている、「生活」している、とは言えるけど、おれは「日常」している、とは言えない。

そのちがい、そのべつにどうでもいいようなちがいに、なんとなく、日常、というものへの近づきがたさを、感じてしまう。ひとりだけ仮面をかぶって、それが当たり前のようにそこに佇んでいるような、掴みどころのない感じ。

ある哲学者がいて、その人は、おれたちの日常の姿は、本当のおれたちじゃない、と言っていた。

おれたちが、本当のおれたちに向かって、それこそ、左の崖から右の崖に、死を賭して飛び移るように、跳躍するからこそ、おれたちは本当に、この存在を生きることができるのだと、言っていた。

いやそんなことは言っていないのかもしれないけど、そう言っているように、おれは思った。

その話を初めて聞いた時、彼の言わんとしていることは、おれにも、わかるような気がした。彼の著書を、熱狂的に受け入れた、当時の若い人たちの気持ちも、わかるような気がした。

でも、飲み込めないものもあった。

日常を生きているおれが、本当のおれじゃないとして、じゃあ、日常を生きている、それを生きるしかないと思いながらも、それを生きることすらもままなっていないような、おれが生きてきた日常、そこで流されたおれの時間はぜんぶ無駄だったのか?

そういう問いが、喉に引っかかってぜんぜん、飲み込めなかった。

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おれの日常は安定していない。同じことを繰り返してはいるけど、それを繰り返しているおれ自身は常に揺れ動いている。

人から見れば、いつかのおれと、いまのおれは、同じように見えるかもしれないけど、おれのなかでは、いつかのおれと、いまのおれは、まったくちがうものとして、あるし、いる。

季節が四つめぐれば、ひとつの季節がもうひとつの季節へ移り変われば、もしかすると、朝が昼になって、昼が夜になって、夜が朝になれば、いまのおれだったものは、いつかのおれになって、新しくやってきたものが、いまのおれに、なる。

そんなおれを日常は受け入れる。どれだけおれが不安定であっても、日常は、変わらずそこにある。

畑までの変わらない道。りんご畑。いつものスーパー、いつもの陳列、いつものレジの人。妻や猫たちがいる家。おれには変わらないと思える、あの人たちの、しぐさ、口癖。

おれの日常を担っているのは、おれではない。

テントウムシの奇妙なかたち、あれは、さなぎ、だった。いま思い出した、あれは蛹だ。幼虫と成虫のあいだにある、不可解なプロセス、時間。

日常は、おれにとって、蛹の外側にあたるものかもしれない、と思う。

日常の内側で、おれは、どろどろに溶けていて、でもただ、溶けているだけではなく、なにかしらのかたちに向かって、どろどろを脱していく途上にいる。でもそこに、本当の自分に至るような道筋はなく、そこを脱して、かたちを成しても、またいつか溶ける時が来て、自分がどろどろに戻ってしまうことは、すでにもう決まっていることのように、思えてしまう。

いまのおれは、自分が陥るその蛹の時間を、コントロールするのは難しいと感じている。ほとんど不可能だと思っている。そしてもうそうなるしかないものだとほとんど諦めている。

それが、人に迷惑をかけることには変わりないので、できるだけかけないように、じっと動かず、そこにいて、静かに、新しいかたちがやってくるのを、待つことができるようにしておこうと、いつかやってくるだろう蛹の時間のことを思って、一応、身構えてもいる。でも結局、迷惑をかけてしまう。本当にもどかしい。

本当の自分、というものがいるのだとすれば、それは特定の状態に至り、それを維持し続ける自分、ではない。日常という皮の内側で、常に揺れ動くもの、そこにたぶん、本当の自分、自分の本当が、あるんじゃないかと、思ったりする。

日常という仮面を被って、被せられ、生きること。

あるいは幸福と反復について。

髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun
・読み書き聞く人(office SOBORO

office SOBORO(note)

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