②xとy
HOME ‣ 連載 | あいだに漂う ‣ ② xとy (2024.7.4)
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今日も、この取引は販売仕入高であるとか車両費であるとかやりながら、会計ソフトを使って数字をポチポチ入力している。どんな小さな会社にも決算という一大イベントがやってくる公平平等な国に生きているので、7月が年度末の我が社の経理を仰せつかっている不肖わたくしは、農作業の合間に悠々と空を渡っていく不細工な声のサギを目で追いながら、おまえはいいな、決算とかなくて、とか思ってしまうのである。
何度でも言うけど小さな会社である。
日々の取引数なんてたかが知れている。
そう、たかが知れているので、そうたかを括っていたら、年度末にそわそわあたふたと慌て出すこの体たらくを過去に2回目も繰り返し、そして今現在もそういう渦中にいる。農作業の合間にシャクトリムシの不恰好な歩き方にケタケタ笑いながら、おまえはいいな、決算とかなくて、とか思ってしまう、後悔から学ばない経理こと不肖わたくしのおれである。
いやしかし、小さな会社ではあるけど農業が主たる事業であることで経理が多少面倒くさいことになっていることも加味していただきたい。
どうやら会計ソフトの提供元は、農業を主たる事業とする法人がこのソフトを使うとは夢にも思っていなかったらしく、標準装備の仕訳システムには、種苗費やら薬剤衛生費やらそんな勘定科目は設定されていなかった(いなかったので自分でそういう本を読んで設定した)。収入保険の担当者には「所有する農地で採れた原材料を使った加工品は売上高に含めていいですけど、自社のものではない原材料を使った加工品のそれは含めないでください」と言われたり、農地適格法人の報告書を提出しに行けば担当者に「他社の原材料を使った加工品の売上もべつに含めていいですよ」と言われたりする(仕方ないので売上高を、それに合わせて仕入高も複数に分類して設定し、どっちの求めにもすぐに対応できるようにした)。
こうやってぐちぐちまくし立てて書いてみても、一向に決算は進まないので粛々とやっていくしかないことは重々承知のうえで、けっこうおれ、がんばってるんですよ、とわざわざ連載で書いてしまっていいんだろうかと思うそばから、こうやって書いてしまうのだから本当にもう手の施しようのない両手でどうしようもないなぁと思う。
あぁ決算
いやだいやだな
あぁ決算
あつを
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自慢じゃないけど数学は苦手だ(なのに経理をやっている)。数学の楽しかった思い出を呼び出してみると、「二兎を追う者は一兎も得ないんですよぉぉぉ!」とチョークで黒板の白い計算式をバシバシ叩きながら言っていた高校の数学の先生を思い出すくらいには、数学それ自体の楽しかった思い出はない。
定年の近い愛妻家のおじいちゃん先生だった。
ちゃらんぽらんな答えを言うと、今だと平気で保護者に通報されそうな言葉で生徒を罵ったり(本気でそうしているわけではないことをおれたちは知っていた)、黒板の、数字や記号たち、xやyやpやらqやらの羅列を眺めながら、「美しいでしょ」とうっとりこぼしていた(おれたちは笑ったけど、本当に数学が好きな先生だと感じていた)。
ちゃんと話したことはなかったけど、一度だけ勇気を出して、分からない問題のことを質問しに行った。
その先生は、数学のことを、優しく教えてくれた。
なにを教えてもらったかは覚えていない。今思うと、おれはたぶん、問題のことを訊きたいふりをして、その先生と話したかったんだと思う。授業でみんなに向かって話すようにではなく、自分ひとりでいる時に、その先生と話してみたかった。なんで話してみたかったのかも当然思い出せない。たぶん思春期特有のなにかがあったんだろうと思う。でもその声の感触、響きは、今でも鮮明に思い出せる。
二兎を追う者は一兎も得ないとはまさに、そのとおりなのかわからないけど、質問をしたのはその一度だけで、その先生と親しげに話すような仲にはならなかったし(まぁでも学校ってそういう場所じゃないし)、数学が好きになって成績が劇的に上がるなんてこともなかった(自分ではけっこうがんばって勉強したつもりだった)。
でも、当時の数学と自分の格闘を思い出し、もったいないことしたなぁと思うのは、正解があるからこの数式が問題としてあるんだ、という思い込みから、頭ひとつ分だけでも、抜けていくことができなかったということだ。
「x=yの場合の定点pの値を求めよ」という問題(適当に作りました)にしても、それが問題として、ふっ、とわいて出てきた時、というものがきっとあったはずで、その時、それを問題として受け止め、それにブチ当たっていった人々が、頭を絞って導き出した解、それが、学校で数学を学ぶ僕たちの前に「正解」として現れてくる。
だから、ある数式に取り組むということは、過去の人々が解を求めたプロセスを追体験するプロセスだと思うのだけれど、そのプロセスの最中に感じたことは、数学の成績向上とは直接関係のないことなので(ないことだと当時は思っていたし、そんなプロセスがあるだなんてことも思いもしていなかった)、「正解」を覚え、それをできるだけ早いスピードで再現すること、そういう能力を、ただただ数学で当時のおれは磨いていたのだと思う。
そんなことばかりしていたんだもの。その先生がある数式を見て、美しい、と思う地点におれは、到底届かないし、むしろ遠ざかっていた。
数学的センスのいい人たちは、ある種の数式に備わる美について、敏感な人たちなのかもしれない。その美の痕跡を嗅ぎつけ、正解を求める方とはべつの方へ、ふらふらと彷徨い出してしまうから、その彷徨いのプロセスで、彼らは過去の遺産から多くのものを読み取り、咀嚼し、彼らの数学的センスは磨かれていく。磨かれ磨かれて、いつの間にやらたぶん、フェルマーの最終定理、的な謎を気づいたら、解いてしまっているのだろう。
そういう人たちのことを、僕たちは、天才、と呼ぶのかもしれない。
xとyのあいだに横たわる、深淵で甘美なるものの、蜜を吸う者たち。
なんつって。(あつを)
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新聞やテレビ、ネットニュースを見ていると、小学校に通っているような子が、大人もびっくり腰を抜かすような大発見をしたとか、大人も舌を巻いて逃げ出しそうなこだわりを見せて何かに取り組んでいるとか、そういうことを見聞きすることがある。
そんなコンテンツが大量生産されている意図はわからないけど、彼らにはどんな風に世界が見えているのだろうと、少しだけうらやましいような、そんな気持ちで思ったりする。願わくば、彼らのバイタリティ溢れる興味関心を削ぐような、捻じ曲げるような、よくわからない意図に、彼らを巻き込んでほしくはないと、大人の端くれとしておれは思う。
なんてことを、大人ぶって書いてみたものの、彼らのような人々が見ているのはどんな世界なんだろう、という憧れは消えず、いいなぁ、一度でいいから見てみたなぁ、と駄々をこねて床を転げ回る自分がいることも否定できず、恥ずかしいやら情けないやらでどうしたもんかなぁとも思う。
まだまだ大人への道のりはほど遠い。
いやでもしかし、xとyのあいだにある豊かな世界。
楽しそうだなぁ。
あぁでも決算。
寝てる間に渋沢栄一にでも憑依されでもして、寝て起きたら終わってないかしら、決算。
あぁでも、あの人は経営の神さまなんだっけ。
経理の神さまってだれだ。
グーグル先生に訊いたら『会計の神さまが教えてくれたお金のルール』という本をおすすめしてくれた。
いや、そういうことではなくて。
ありがたいけど。
髙橋厚史(たかはし あつし)
・りんご農家(株式会社Ridun)
・読み書き聞く人(office SOBORO)